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今回のテーマは「多摩川と人とのつながり」。長年多摩川沿いに住まわれ、多摩川と深く関わって生活してこられた高崎勇作さんにお話を伺いました。
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高崎さんが家業である砂利屋の仕事の関係で、福生の町内から永田橋近くの多摩川沿いに移り住んだのは昭和15年、小学1年生の時でした。そして砂利採取業に本格的に従事するようになったのは昭和31年。当初は辛い重労働でしたが、間もなく機械化が進み、重労働からはすぐに開放されたと言います。ちょうど東京オリンピック前の成長期で、砂利の需要が急増し、機械化も進んだことから、多摩川の河床まで砂利を掘り尽くすような状況でした。そして掘った跡には砂利を洗った泥水を流し込んだので、永田橋の上流一帯はヘドロの平原のようになったと言います。そこにはネコヤナギやヨシなどが生えてきて、徐々に現在のような草むらになっていったとのことです。永田橋周辺の多摩川から石河原がなくなった一因は、この砂利採取方法にあったと高崎さんは言います。かつては本当に辺り一面の石河原で、ちょっとした出水でも土手の際まで川幅いっぱいに水が流れていたとのことです。また、戦後の食糧難の時代には、河川敷の平らな場所は畑にしていたというお話もありました。
高崎さんが子どものころ、多摩川沿いの現在遊歩道になっているところには、水路が流れていて、福生の水田を潤す生命線になっていたとのことです。これは田村分水や熊川分水よりも古い時代につくられた、玉川上水の分水だったそうです。特に永田橋のところは下流へ続く堤防の起点部にもあたり、これらを洪水から守るために、水制、突堤、水はねなどの構築物が造られ、そこに流れがぶつかって大きなワンドができ、子どもたちの水泳の場であるとともに、魚の宝庫になっていたと言います。しかし、昭和23年のアイオン台風によって、これらはすべて壊されてしまったとのことです。
魚の思い出として、最初に話してくださったのはあんま釣り。私たちも福生水辺の楽校の活動で子どもたちと楽しんでいるので、この簡単な仕掛けで釣りの醍醐味を一番味わうことができたと聞いて、とても嬉しくなりました。ウナギやナマズを狙ってワンドで素潜りもしたとのことですが、深いところは水が冷たくて長時間はできなかったそうです。水底ではギバチがギィギィ鳴き、また、時折きれいなカワマス(サクラマス)が捕れるのが最高に嬉しかったと言います。
長らく声も聞いていない鳥も多いと言います。その代表がヒバリで、巣から雛を取ってきては竹籠で飼って鳴き声を楽しんだそうです。ヒバリは巣のある場所から飛び立たないので、捕まえるのに知恵をしぼったり、よく鳴くオスを目当てに、春先の一番巣を狙ったりしたそうです。ホオジロをきれいに囀らせるのは難しかったこと、セグロセキレイの雛を取ってくると、親鳥がついてきてエサ運びをしていたこと、イカルチドリをハヤミチと呼んだことなど、鳥の思い出もたくさんお聞きすることができました。また、当時はカワセミもたくさんいて、多摩川の上を横断していた電話線にぶつかったのか、ヤマセミの死骸を何回も見たと言います。
柳山公園のクヌギの木には、ウシデンボウ(カブトムシ)が何百何千と行列していたそうですが、当時の子どもたちはあまり興味がなかったと言います。昭和35年に現在の永田橋ができると、道路照明の水銀灯に集まり、辺りには車にはねられたカブトムシの死骸が累々と続いていたとのことです。葱の白いところをつるして、ヒッチョ(キリギリス)釣りもやったそうですが、このキリギリスの声もずっと聞いていないと言います。
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この後、参加された皆さんに、これまで川や自然とどのように付き合ってきたのかを発表していただきました。自然の中で育ち多摩川ともずっと関わってきたという方、子ども時代は自然の中で過ごしたが、その後は自然から遠ざかっていたという方、川や自然と関わるようになったのは最近になってからという方など、さまざまでしたが、みんな川や自然が大好きで大切に思っていること、そして多摩川をとても身近に感じていることが伝わってきました。自然保護とは豊かな自然を次世代に引き継ぐことではないでしょうか。
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これまで多摩川(または他の川)とどのように付き合ってきましたか? |
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子どもの時は二子玉川、六郷辺りで育ち、中学の時に秋川の近くへ引越し、独立してからは福生の多摩川べりに住んでいるので、ずっと多摩川を見て暮らしてきた。子どもの頃の多摩川(二子玉川付近)の様子、水の汚れや川底の藻の付き方などは、ちょうど今の福生付近の多摩川と同じような感じだった。羽村堰からの放流をもっと増やし、石を下流に流す方法を考え、元々の川の姿が取り戻せればと思う。 |
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子どものころは利根川水系の粕川で魚釣り、水泳などを楽しんだ。多摩川との付き合いはまだ10年ほどだが、育児、サイクリング、河川整備計画づくり、自然観察、水辺の楽校の設立・運営などに関わっている。他の川では梓川(信濃川水系)などで渓流釣りを楽しんでいる。 |
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幼い頃は家業である農業の手伝いが日課で、里山で落葉を集めて肥料をつくり、炭焼きや椎茸のほた木づくりに明け暮れていた。現在は多摩川に関心を持ち、主に水干から中・上流の探索を楽しんでいる。 |
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福生に引っ越して来てまだ1年だが、今まで生きてきて、こんなに川にふれたのは初めて。これからも勉強していきたいが、知らない言葉が多くて、頭の中がいつもパニックになっている。少しずつ、あせらずに覚えていきたい。 |
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高崎さんのお話にあった「ウシデンボウが100匹ずらずらと木を上っていった/ヒッチョを葱で釣った/タタキ釣り、アンマ釣り、置きバリ」など、子どもたちが歓声をあげて遊べる川は幻なのだろうか。自分の肌で味わった魚の感触は一生忘れない。幼い子どもを虐殺するようなことがおきる今の世を救う多摩川にしたい。 |
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多摩川との付き合いは、主に春から秋に子どもとの魚とりで。河原は子どもとの遊び場。多摩川は、何か目的がなくてもそこに行けば時間がつぶせるという、いこいの場所。子どもの時は下町で生活していたが、近くを流れる綾瀬川は「黒い、汚い、臭い」の代名詞で、遊び場としての川は存在しなかった。だから田舎の川には良く行った。特に夏は一日中、川で何かをしていたことを思い出す。遊びや行事を通して、子ども・大人を問わず川が身近な存在になると良い。 |
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原っぱで花を摘んだり、草で遊んだり、走り回ったり、こわれた木のブランコで遊んだりしたことはあるが、今まで川と付き合ったことはほとんどなかった。家の近くを流れている野川が毎年のように干上がることを残念に思っている。 |
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青梅生まれなので、多摩川ではよく泳いだ。上級生に連れられ、車のタイヤを浮き輪にして下奥多摩橋の下へ行くのが夏の行事だった。ダムができる前だったので、水も比較的温かく、一日中泳いでいた。水量が多く、「水に入るのはおへそのところまで」と母によく言われた。かのと岩のところは、流れが渦を巻いていて飛び込むときの要注意場所だった。 |
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土手のサイクリングロードを歩いたり、橋を渡ったりする時、川は風景の中に自然に溶け込んでいた。 |
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祖父が砂利取りや堤防をつくる仕事をしていたので、古い写真などを見直してみようと思う。 |
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自分にとっていちばん身近な自然とふれあう場所が多摩川。そこで自然の美しい姿を数多く見ることができた。 |
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昭和30年頃、父が多摩川(関戸橋の近く)へ泳ぎに連れてきてくれたことを覚えている。水が湧いていて、冷たく透明な水の中で遊んだ。その後、汚れて泡だらけで臭くなった多摩川を見るのがつらかった。しかし、下水道が整備され、工場排水が規制され、川が少しずつよみがえって、最近は魚の種類もぐんと増えてきているのがうれしい。今は河原を自然とふれあうことのできる場として教育面で活用している。ヨモギ、カンゾウ、ノビル、クコなどの味覚も楽しんでいる。今は多摩川から5分のところにいるが、これからも主に植物を通してかかわり続けると思う。ただ、河原に上流から石が供給されないことが川の姿を変えてしまうので心配だ。 |
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小学校の授業では多摩川で泳いだ。睦橋近くの五番というところ。もちろん課外でも多摩川が遊び場だった。黒くてすべすべした石を探して石けりをしたりした。また、父が川をせき止めてドウを仕掛けてウナギとりをするのを見ていた。最近は自然観察やウォーキングで土手をよく歩く。 |
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多摩川とは景色を眺めて絵を描いたり、ときどき丹波の方へ釣りに行ったりしてかかわってきた。海では父が素潜りをしているのを待っている間、イソギンチャクや魚を見たり磯遊びをしていた。 |
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子ども時代は大自然の中で育った。小高い山の上に家があったこともあり、山が大好き。今回、多摩川について学ぶ機会があり、川と人の生活には密接なつながりがあること、また砂利採取によって高度成長の根幹がなされ、多摩川もそのひとつだったことを実感した。 |
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故郷は愛媛県の菊間町、春秋は菊間川で小魚とり小ブナ、ドンコ、ドロクイ、ヒミズ(ウナギの幼魚)、梅雨の頃はモクズガニ、ドブ川でベンケイガニ(赤手ガニ、天神ガニ)。夏は海で海水浴や水中ネガネを着けて潜ったが、子どものときに遊んだ以外に付き合いはない。福生に来て、町会(南田園三丁目)で多摩川中央公園の建設を発議した。 |
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昔と違って多摩川の様子も様変わりしたが、ニセアカシアは春になるとすばらしい芳香を放ってくれ、葛、藤の花も良い香りを漂わせてくれる。時代は移っても、なんと言っても多摩川は私の母だ。 |
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