TOP > 多摩川の魅力と人の動き > 多摩川の見どころ > 多摩川歴史さんぽ > 各地区共通:多摩川・秋川の水運〜筏流し〜

多摩川の見どころ

多摩川歴史さんぽ−各地区共通

多摩川・秋川の水運〜筏流し〜

水上の交通路

江戸時代、筏による木材の輸送と、筏の上荷としての木炭・石材・石臼等の江戸への運搬路として多摩川・秋川には水上交通が開けました。江戸の木材需要は、木曽や紀州などから海路輸送される木材と、「近在物」と呼ばれる西武州の山場産でまかなわれました。近在物は、多摩川・秋川流域の「青梅材」と荒川流域の「西川材」とに大別され、青梅材は多摩川を筏で下り江戸へと送られました。筏流しの起源は不明ですが、元禄年間には既に行われ、鉄道・トラック輸送にとって代わる大正末期までの200年以上にわたって多摩川の風物詩として続けられました。

■筏乗り風景(実際にはこの2倍強の長さがあった)出典:羽村町史

「筏師」とは産地の木材業者を意味し、筏に乗って川を下る者を「筏乗り」「乗り子」と呼びました。筏師の経営する伐木・製材・輸送等の過程の中で輸送に従事する労務者が筏乗りです。筏乗りは1年〜1年半くらい先輩のもとで修行し2年ほどで一人前になったといいます。

筏師の団体は「筏師仲間」といい、千ヶ瀬村(青梅市)に事務所がありました。明治19年に「三田領筏師組合」と改称し、多摩川流域の木材一切を統括しました。秋川流域には「小宮領筏師組合」があり、両者で当時の西多摩郡を二分していました。

筏乗りと住民とのあいだには、筏通行や上荷をめぐって様々な紛争が生じました。特に、流域の水田・畑の保護を目的とした水防普請と、筏流しに必要な充分な流量と水路の確保は、相反するものであり、例えば所々に築かれてた堰が筏通行には支障をきたすことが多く、筏が衝突し堰が破損するなど、筏は迷惑な存在であって堰普請を理由に筏の川下りが停止されることも度々あったといいます。

■文化3年(1806)3月の多摩川における筏師の分布出典:新多摩川誌(日本産業史大系4 関東地方篇)

■玉川水神社(羽村市)の石灯籠天保10年(1839)に羽村堰上流42ヶ村の筏乗りたちにより寄進 出典:羽村町史

玉川上水の取水口があった羽村堰では、筏の通路として「筏通し場」が設けられていました。滑車の役割をする修羅木(しゅらき)が敷き並べられた上を筏が下っていきました。上流側には多くの筏が一峰院あたりまで列をなし、筏乗りの他に「送り」と称する多数の応援の人夫も加わり、先を争って筏通し場をぬけようと戦場のような緊張と混雑だったといいます。羽村堰を通行する筏は、年間約3,000枚。1枚につき銭16文が筏通場運上(通行料)として徴収され、堰の維持管理費にあてられていました。

筏宿と筏道

多摩川沿川の沢井・千ヶ瀬・羽村・拝島・日野・府中・調布・登戸・二子・羽田などには、筏乗りが宿泊する「筏宿」が置かれていました。羽村市〜昭島市域の主な筏宿には、羽村の島田・持田、牛沼の角屋、拝島の万作屋などがありました。明治30年頃の泊まり賃は1泊3食付20銭位だったといいます。

筏宿に宿泊を重ねて、六郷へたどりついた筏乗りは、江戸の材木問屋に筏を引き渡し帰途につきます。多摩川に沿った「筏道」を徒歩で帰ったといいます。明治27年の青梅鉄道の開通後は立川からは汽車に乗りました。

(参考文献・『昭島市史』、『羽村町史』、『秋川市史』、『新多摩川誌』)

秋川の木材生産と筏流し
流木狩り

檜原村や五日市村などの秋川上流の村々では、造林・伐採・管流し・杣・筏川下げなど、筏流しの仕事に携わる人々が多くいましたが、平地であった旧秋川市の村々では少なかったといいます。こうした村々では、「流木狩り」が筏流しと関係する少ない機会の一つでした。

川の出水によって、筏を組む前の木材が上流から流下してくることが時々あり、下流まで探して拾い集めることを流木狩りといいました。上流の元締めの筏業者が独自で行うこともありましたが、下流の村々が流木を集めて保管し、業者に引き渡して謝礼を受け取るということも行われました。引き取り手のない木材は、下流の村が独自に売却し利益を分配することもありました。

(参考文献・『秋川市史』)

秋川から多摩川を経由して六郷に至る舟運輸送ルートでは、初めは天然木が伐採されていましたが、次第に杉や檜の建築用材が植林されるようになり、初期の筏は皮つきの大物筏が多く、後期になると規格化された角筏が中心となりました。秋川谷の林業は、河川交通に恵まれて根づき大きく成長したといえます。

伐採木は、山中で渓流へ落として1本ずつ流されました(管流し)。管流しされた材木は、土場と呼ばれる河原の広い場所へ引き上げられ筏が組まれます。秋川の土場は、乙津の落合から山田の堰までに20〜30箇所あったといいます。山田の堰を出発した筏は、六郷まで通常4日ほどで到着し、高月や拝島などの筏宿に途中宿泊しました。帰りは筏道を歩いて1日で戻ってきたといいます。

川を下る筏は、用水堰を壊したり、夏場の出水期には流木騒ぎを起こすなどトラブルも絶えませんでしたが、江戸の旺盛な材木需要に支えられ、杉皮、炭などの上荷を載せ、幕末には秋川分で年間2千枚の筏が流下したという記録が残ります。こうして秋川谷には、有力な山林地主が生まれ、多数の人々が日銭稼ぎで潤ったといいます。

秋川の筏流しは、トラック輸送がはじまり、五日市鉄道が開通した大正末期頃にその使命を終えました。

(参考文献・『五日市いろはカルタ』)

← もどる   ▲ ページトップへ

TRMの紹介  |  多摩川の魅力と人の動き  |  川で活動するために  |  調べてみよう

国土交通省京浜河川事務所 河川環境課
Tel:045-503-4011
e-mail:keihin-renkei@ktr.mlit.go.jp