- 臨済宗建長寺派広済寺
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平井川の畔に位置する天正15年(1587)2月の創建の臨済宗建長寺派平沢山広済寺。庭前にある湧水池の傍らには「お手玉石」があります。昔、玉川上水の開削工事の折、平沢から力自慢の1人の男が人足として出掛けていきました。帰りに庭に置くのによい石が見つかったといって手玉にとって持ち帰ったのが、このお手玉石だと伝えられています。これと似た伝承が「鬼源兵衛の伝説」として檜原村に伝えられています。
本堂西側の墓地には、江戸中期のすぐれた農政家で治水技術者でもあった田中丘隅の回向墓(東京都指定有形文化財)があります。丘隅の生家・窪島家は広済寺のすぐ近くにありました。
- 田中丘隅と民間省要
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寛文2年(1662)、平沢村の名主・窪島家に生まれた田中丘隅は、八代吉宗が推進する享保の改革において幕領三万石の代官に抜擢され、立身出世を果たした異色の民政家、地方(ぢかた)巧者です。
幼少より才気活発、向学心が旺盛だった丘隅は、兄祖道とともに八王子の古刹大善寺に学びました。一方で、山野をかけめぐる自由奔放な少年として育ち、また、家業の農業の手助けも怠りませんでした。窪島家存続の危機の際には、父母と兄、6人の姉妹を想い、刻苦と奮闘を続けた末に窪島家は見事に再興したといいます。
さらに農業の傍ら、江戸・上州方面に赴く絹仲買の商いも兼業し、諸国行脚によって丘隅は多くの生きた学問を体得しました。積極的な行商は東海道川崎宿にまで及びます。ここで宿名主・田中兵庫と出会い、22歳の時に同家の養子に迎えられました。45歳で田中家を相続して以降、六郷の渡船権獲得の成功によって財政難の宿場町の復興を果たすなど、めざましい活躍は有名ですが、晩年にいたっても郷里・平沢村には限りない郷愁と愛着をいだき続けたと伝えられています。
享保6年(1720)に丘隅は、農村生活や諸国行脚の実体験、修得した学識と名主としての経験などを土台に、十七巻におよぶ民政の意見書『民間省要』を書き上げました。特に、上編巻之五第二三「百姓四季の産」には、関東一円の農民生活の実態や飢饉の惨状などが克明に描写され、若き日の平沢村での農村生活ゆえの徹底した生産者農民の側からの視点が貫かれています。年貢・治水・農民生活など多岐にわたる具体的な提言が記された壮大な警世の書は、将軍吉宗へと献上され、享保改革など幕政にも大きく寄与しました。
- “多摩川流治水工法”の確立
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『民間省要』の上辞の後には、幕府より河川管理の責任者「川除御普請御用」に登用され、多摩川下流の大丸用水、二ヶ領・六郷用水の大改修工事、富士山噴火災害に苦しむ酒匂川の難工事など、多くの治水事業で成功をおさめました。幕府は丘隅を高く評価し、多摩・埼玉二郡三万石代官、二十人扶持、支配勘定格に抜擢しましたが、その5ヶ月後の享保14年(1729)12月、丘隅は江戸にて67年の生涯を終えました。
丘隅の治水工法は、河相に合った水制工法の創案など、その技術は関東流や紀州流という当時主流の工法には見られない要素が多く、休愚をして「多摩川流」という独自の河川土木技術を起こしたともいわれ、後のわが国の河川土木技術の発展に極めて大きな影響を与えたと評価されています。
なお、丘隅の治水技術は、甥の羽村出身の森田通定(みちさだ)へと継承されされました。父は名主の森田十郎兵衛、母は丘隅の4人の妹の一人“かね”です。通定は、青年時代から伯父の側近技術者の一人として治水技術を学び、多くの河川土木工事に参画しました。丘隅の没後20年の後には、自らの諸経験をもとに丘隅の思想と技術を受け継ぐ集大成ともいうべき『治水要辨(ようべん)』を著しました。羽村市内に通定の墓があります。
(参考文献・『秋川市史』、『はむらの歴史』、『新多摩川誌』)