九ヶ村用水の完成の後、昭島北部を流れる玉川上水から新たな分水路が引かれました。元文5年(1740)に拝島村の飲料水確保のための分水が許可・開削され、村の北より引き入れ拝島宿の中央を奥多摩街道に沿って東に流れ、田中村で九ケ村用水と合流しました。長きにわたり、拝島村民の生活・農業用水として、宿場の業務用水として重要な役割を果たしてきました。
武蔵野地方の水車の多くは拝島分水をはじめとする玉川上水の分水に設けられていました。最古の設置は宝暦11年、安永以降に急速に数を増やし、天明8年には34箇所を数えたといいます。当初は自家用の製粉に使われ、やがて江戸に向けての雑穀類販売を目的とした製粉や賃搗が行われるようになりました。水車経営者にも化政期頃から変化がみられ、在方商人が「水車稼ぎ」に進出してくるようになりました。拝島村には比較的早期に設置された3箇所の水車がありましたが、近代に入って急増し、明治14年(1881)には13箇所を数え、水車は拝島名物の一つであったといいます。
拝島駅北口、玉川上水に架かる平和橋の南詰東側には拝島分水の取水口が残っています。
(参考文献・『昭島市史』、『昭島の歴史』)