TOP > 多摩川の魅力と人の動き > 多摩川の見どころ > 多摩川歴史さんぽ > 昭島地区 > 21.拝島分水と水車稼ぎ

多摩川の見どころ

多摩川歴史さんぽ−昭島地区

21.拝島分水と水車稼ぎ

■明治35年頃の拝島宿と拝島分水

明治35年頃の拝島宿と拝島分水

出典:昭島市史

■拝島村水車一覧

拝島村水車一覧

出典:昭島市史

■現在の拝島分水(拝島大師付近)

現在の拝島分水(拝島大師付近)

写真提供:昭島市

■取水口(平和橋)

取水口(平和橋)

写真提供:昭島市

九ヶ村用水の完成の後、昭島北部を流れる玉川上水から新たな分水路が引かれました。元文5年(1740)に拝島村の飲料水確保のための分水が許可・開削され、村の北より引き入れ拝島宿の中央を奥多摩街道に沿って東に流れ、田中村で九ケ村用水と合流しました。長きにわたり、拝島村民の生活・農業用水として、宿場の業務用水として重要な役割を果たしてきました。

武蔵野地方の水車の多くは拝島分水をはじめとする玉川上水の分水に設けられていました。最古の設置は宝暦11年、安永以降に急速に数を増やし、天明8年には34箇所を数えたといいます。当初は自家用の製粉に使われ、やがて江戸に向けての雑穀類販売を目的とした製粉や賃搗が行われるようになりました。水車経営者にも化政期頃から変化がみられ、在方商人が「水車稼ぎ」に進出してくるようになりました。拝島村には比較的早期に設置された3箇所の水車がありましたが、近代に入って急増し、明治14年(1881)には13箇所を数え、水車は拝島名物の一つであったといいます。

拝島駅北口、玉川上水に架かる平和橋の南詰東側には拝島分水の取水口が残っています。

(参考文献・『昭島市史』、『昭島の歴史』)

大田南畝と川路聖謨
大田南畝

■大田蜀山人自筆短冊(竜津寺蔵)

大田蜀山人自筆短冊(竜津寺蔵)

出典:昭島市史

当代江戸文化人の最高峰にいた南畝大田直次郎は、文化5年(1808)に幕吏として多摩川の堤防の巡察に訪れます。狂詩・狂歌に優れた才能を示し、洒落本・黄表紙にも手を染め、多くの文化人との交流を深めていた南畝は、46歳で官吏登用試験に合格、諸国で下級幕吏の職を歴任した後、60歳にして多摩川の堤防巡視の命がくだったのです。

文化5年12月から真冬の5ヶ月間にわたって巡視を成し遂げた南畝は、全部で6部19冊におよぶ巡視の記録を残しました。昭島地域の村々については、「調布日記」「玉川披砂」「玉川砂利」「向丘閑話」の4冊があります。府中から拝島までの中流域では、三往復ほどの巡察旅行が続けられ、昭島では計3泊、宿泊滞在しました。「調布日記」には昭島の多摩川や周辺の山々の景色、九ヶ村組合用水、拝島の水車、段丘上の桑畑等について描写されています。

川路聖謨

■明治以後の拝島村の水車
(中島繁治氏撮影)

明治以後の拝島村の水車(中島繁治氏撮影)

出典:昭島市史

昭島地域に足を延ばしたもう一人の幕吏に川路聖謨(としあきら)がいます。弘化2年(1845)、多摩郡を巡察したときの「玉川日記」には、幕吏の目で見た昭島市域や周辺の様子が綴られています。風光明媚な多摩川を純粋に楽しんだ大田南畝とは対照的に、聖謨は資本性生産の先駆としての工場制手工業(マニュファクチュア)の様相を呈していた拝島の水車動力による撚糸業の様子に驚嘆したといいます。

(参考文献・『昭島市史』)

← もどる   ▲ ページトップへ

TRMの紹介  |  多摩川の魅力と人の動き  |  川で活動するために  |  調べてみよう

国土交通省京浜河川事務所 河川環境課
Tel:045-503-4011
e-mail:keihin-renkei@ktr.mlit.go.jp