第1章 多摩川の概略
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第1編 序説

第1章 多摩川の概略

 多摩川の流域面積は1240km2,幹川流路延長は138kmである.流域面積においてわが国で50位であり,一級水系河川は全国で109あるのでその中でほぼ中位に位しており,流域面積最大の利根川の7.4%にしかすぎず,関東では利根川,荒川,相模川に次ぐ.流路延長については,利根川の43%,全国では23位となり,流域面積に比し比較的長いといえる.

 日本の地質区分から見れば,多摩川は東北日本,外帯に属し,その特性を如実に現している.すなわち,上流山地には破砕帯地すべり地帯を有し,特有な山村景観が見られる.外帯河川は一般に流域面積は小さく,それに比して流路延長は長く,上流部で蛇行河道が見られ,かつ降雨量が豊富であるため,水力発電に恵まれている.しかし,多摩川は外帯河川としては降雨量が比較的少なく包蔵水力は小さい.外帯河川としては平地部の面積が比較的大きいが,台地や丘陵地の発達により洪水氾濫地域は広がらず,かつその平地部は主として畑と林地として発達して,水田比率も外帯河川としては大きい.その平地部の農地や集落形成に当たっては地下水に相当部分を依存してきた.その地域に高度成長期に都市化が急激に進み,もはや地下水のみでは水需要の増大に対応し切れず,新たに利根川に依存せざるを得なくなってきた.かつては,氾濫地域が狭小なるがゆえに,玉川上水,二ヶ領用水,六郷用水の例のように,流域外へ水を供給してきた多摩川が,他水系から導水を受けることになったのも,他に例を見ない多摩川のになった際立った特徴であるといえよう.

 多摩の名称が文献記録上もっとも古く現れるのは萬葉集である.

“多摩川に曝す調布[てずくり]さらさらに 何そこの児のここだ愛[かな]しき”

 さらにその他の歌にも多摩が現れており,この時代にすでに多摩という地名は広域名称として川の名にも山の名にも冠せられていた.しかし,萬葉よりさらに古い時代には,多摩川とは中流のみの呼称であった可能性が大きいともいわれる.

 多摩川という河川名が,現在の多摩川以外であったという根拠はなく,多摩川の名称については,多摩の語源とその範囲が議論の対象となってきている.713年(和銅6)の詔に,地名を記すには二文字の好字を以てせよとされ,タマという音にあてるために文字があてられ,多摩とも多磨とも記されている.9世紀の“倭名類聚鈔”によれば,武蔵国として国府在多磨郡とあり,その多磨については,“多磨太婆”と訓がつけられている.したがって,古くはタバと呼んでいたという説が有力であった.もっとも,婆はマとも呼んでいたという説もあり,その発音については必ずしも定説は無い.タバもしくはそれに近い発音であったらしいということになろう.

 川の両岸はその様相を著しく異にし,一方は台地で焼畑農耕もあった水の乏しい土地,他方は丘陵で湧水や小川に恵まれ水田耕作が可能で森林にも富んでいた.もし多摩川が無かったならば,両岸が同一の行政区名で呼ばれ類似の地域名となるのは難しかったのではなかろうか.それらが同じ多摩郡となっていたのは,多摩川という名が先に在って多摩郡という範囲がきめられたからであろう.

 多摩の語源については種々の説があり,タマは水のタマリで水の豊かなこと,あるいは田間で水田の多い土地の意,ダバはウラルアルタイ語系で峠の意,タマすなわち魂であり,ミソギで精神を清めた習俗に基づくなど多様である.

 なお,ある時期以後,多摩川下流部,すなわち二子玉川付近から下流を六郷川と称するようになった.

 多摩川は,江戸および東京にとって,かけがえのない象徴的河川である.江戸川下流部が東京都と千葉県との境,多摩川下流部は神奈川県との境界となっているように,東京にとって東を画する江戸川に対し,西を画するのが多摩川である.そしてさらに,隅田川も下町の中心を流れる庶民の代表河川として東京の象徴となっている.

 したがって,多摩川は特に江戸時代以降,江戸および東京とその運命をともにして流れてきた.江戸城とその周辺に多摩川の水を導いた玉川上水は,多摩川の存在とその恩恵を強く江戸の人々に印象づけたに違いない.その完成は1654年(承応3),4代将軍家綱の時代である.玉川上水はその技術的水準においても,大都市計画の一環としても,当時の世界的レベルでの評価に値しよう.この時点においてすでに,多摩川は江戸という世界的大都市の大動脈の源として位置づけられたといえる.

 江戸の度重なる大火のたびに,多摩川流域の森林はその復興用材として重要な役割を果たした.特に明暦大火(1657年)に際しては,青梅の森林は大量に伐採されて江戸の急速な復興に貢献した.これらの顕著な例をはじめとして,江戸時代においてすでに,多摩川とその流域の恩恵は絶大であった.

 一方,多摩川はしばしば大洪水を起こし流域住民を悩ました.特に1907年(明治40)および1910年(明治43)の大洪水は,全流域にわたり甚大な被害を与え,抜本的治水事業への要望がいやがうえにも高まった.明治時代になるや,東京府,神奈川県による治水事業は行われていたが,局所的小規模なものであり,かつ両者の利害は対立しており,内務省直轄による大改修事業への要望は,沿川住民の間に高まりつつあった.沿川からのいくたびかの請願もなかなか認められず,1915年(大正4)には編笠事件なる実力行使事件が発生,事態は急を告げていた.すなわち,1914年8月,1915年8月,9月の洪水で神奈川県御幸村,中原村の無堤地帯の被害はとりわけ大きく,明治以来の常習的水害と,治水請願の認められぬことに憤慨した住民が一斉に編笠を冠って大量実力行使に出て警官隊と衝突した事件である.

 その後,いくたの変遷を経て,特に神奈川県知事有吉忠一の奮闘などもあり,1919年(大正8)度より多摩川下流部,河口から二子橋までの区間について,内務省直轄による本格的改修事業が開始され,1933年(昭和8)に一応の完成を見るに至った.しかし,二子橋より上流側の直轄改修は遅れ,ようやく1932年度より二子橋から日野橋まで,浅川については合流点から高幡橋までが内務省直轄事業に編入され,日野橋から上流については第二次大戦後の1966年(昭和41)まで待たねばならなかった.

 1923年(大正12)の関東大震災はまた多摩川にとっても,歴史の転機をもたらすものであった.多摩川はこの大地震によって下流部では護岸などに甚大な被害を受け河床の陥没隆起も著しかったが,重要なことは.この大震災以後,多摩川流域が急速に開発され,東京にとっての役割が一挙に増大したことである.震災直後にはこの流域に,東京から約30万人,横浜から約34万人もの避難民が押し寄せた.震災後の復興計画においては,多摩川流域に多くの施設建設が期待され,それがこの流域開発の重要な契機となった.

 江戸時代において,大火などの災害が多摩川流域開発を促していたが,関東大震災後の開発はその性格を異にしていた.すなわち,かつては移住者による新田,新畑開発を伴う集落増大であったが,大震災後の開発は,土地に生産基盤を持たない人々の移住が目立っている.震災後の交通体系の整備が職住分離を容易にし,サラリーマンの多摩川流域への大量移住が始まった.東京の都市化が急速に多摩川流域に及びまず交通路に沿う線的発展が行われ,やがて第二次大戦後の面的発展への前提になったと考えられよう.それに伴い,多摩川流域には近代的な新しい文化が芽生え,高度な生活舞台が用意され,一方において伝承が断ち切られる面もあり,機能分化的傾向が河川と流域生活との分離傾向をも助長するに至った.

 第二次大戦はまた,東京における多摩川流域の価値を一層高めることとなった.東京区部への農産物の供出,疎開者をはじめ区部の重要書類,文化財などの受け入れにこの流域は役立った.第二次大戦後,特に高度経済成長期における旺盛な都市化は,多摩川流域において,急激な面的拡大を伴いつつ,1964年に始まる“多摩ニュータウン計画”に象徴されるように,多摩丘陵への有史以来の激しい市街地拡大となって現れ,多摩川流域の様相は一変するに至った.下流域においても,沖積低地に住宅や工場がスプロール的に進出した.このような開発状況は,多摩川流域の治水を困難にさせ,従来と同じような治水方式のみではこれに対応できない状況を生み出すこととなった.

 多摩川の水源としての価値は,古くは玉川上水に,さらには二ヶ領用水によく示されているが,昭和時代にはいっては小河内ダムの建設によって飛躍的に高められたといえる.東京都の水需要増大への対応として,この大ダム建設計画はすでに昭和初期から企画され,1936年(昭和11)にこの大計画は着手された.総貯水容量約1億8,000万m3,高さは149m,水道用ダムとしては世界一の規模であった.当時としては雄渾なこのビッグプロジェクトも,第二次大戦の激化に伴い中断され,戦後再開され,その完成は1957年(昭和32)のことであった.これによって多摩川上流域に奥多摩湖が誕生し,上流域は東京への水の大供給基地としてその容貌を一変することとなり,多摩川の東京への役割はさらに増大するに至った.

 治水事業が進展したとはいえ,多摩川洪水の脅威が決して消滅したわけではなく,1947年(昭和22)のカスリン台風によって,利根川はじめ関東,東北各河川と同じく多摩川流域も大災害に見舞われた.さらに1974年(昭和49)には狛江地点の破堤が都民を驚かした.建設省による治水の基本計画は,1964年(昭和39)制定の新河川法に基づき.1966年(昭和41)に,“多摩川水系工事実施基本計画”が決定され,1910年洪水を主要な対象洪水として,基準地点石原において基本高水流量4,170m3/sとして計画が遂行されることとなった.さらに1974年洪水などに鑑み,200年に1回の確率洪水を計画対象として石原において基本高水流量を8,700m3/sとする新しい工事実施基本計画が1975年(昭和50)に決定され,それに基づく工事が現在行われつつある.

 一方,1980年(昭和55)には全国に先駆けて多摩川河川環境管理計画報告書が提出され,支川野川河川敷の礫間浄化事業の開始などとも相まって,多摩川の環境管理が重視され,注目されてきた.これからは,多摩川の治水,利水,環境に関する事業が併行して行われることとなり,その間の調和が重要な課題となって行くであろう.



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