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武蔵野台地は,関東平野の南西部に位置する,若い開析台地である.南及び南西は,多摩川により多摩丘陵,加住丘陵,草花丘陵等と,北,北西は,荒川及びその支流入間川により大宮台地,入間台地,阿須山丘陵等と境し,東は,沖積海岸低地をはさんで,東京湾頭に臨んでいる.ほぼ長方形に近い平面形をなし,西北西−東南東の長辺は約40km,北々東−南々西の短辺は約20kmある.台地は西部中央に狭山丘陵があるほか,全体として東方に緩傾斜する平坦な地形をなし,その高度は西端で190m,東端で20m前後ある.台地の等高線は東部を除き,多摩川の渓口青梅付近を扇頂とし,ほぼ同心円状配置を示すので,台地は一般に多摩川の扇状地と考えられてきた(図2.2.11).
台地北西部の不老川(としとらず),柳瀬川,黒目川等はその流量に不相応な幅広い谷の中を流れていて,谷は直線的で小支谷の発達が少なく,上流方向に延長すると多摩川の渓口に集まる.川の先端ははっきりした谷頭をなさず,広い谷形の中に自然的に消えうせている.このことは,昔,関東山地を出た多摩川が延長川となって台地上をこの方面に流れていたこと,及びその後それらの延長川が流路を変更し,その跡に残った広い谷底−すなわち,古延長川の侵食面−の中に,もとの流路を引き継いで現在の川が流れていることを思わせる.東木(1928)は神田川,目黒川,野川等もこのようにしてできた多摩川系統(多摩川,秋川,浅川など)の古延長川の名残りと考えた.そして台地表面に古延長川によって侵食された地域とそれらの侵食を免れた地域とを識別し,台地表面を分離した数個の武蔵野原面と多数の古延長川の侵食面に区分した.
台地東部の中新井川,妙正寺川,善福寺川,神田川,離宮川,渋谷川,馬込川,呑川等は上記の名残川とは著しく異なっている.これらの川はほとんど等間隔に発達する多くの小支流をもち,小屈曲が多く,流域全体の形が方形ないし長方形をしている.また,川の深さがあまり著しくないにもかかわらず,渓谷壁が急傾斜であり,渓谷頭が急崖下に終わり,現在砂礫層から湧出する水で池をなす所が少なくない.東木(1928)はこれらの谷を古延長川の侵食面谷壁から次第に原面の中に食い込んで成長した崖端侵食谷と考えた.
台地の等高線をみると,70m以西の等高線は単一扇状地の等高線配列を示しているが,60m等高線は三鷹付近で著しく東に突出し,この延長には井之頭池南東に比高10〜15mの孤立丘が二つある.50m等高線の異常はそれほどでないが,40m等高線の異常は著しく,下高井戸から北東の新宿中央公園(西新宿二丁目)や東の駒場の東大航空研究所に至る高まりと,砧の給水場から東南東の駒沢公園や南東の東横学園(等々力八丁目)へ至る高まりとが注意される.前者は神田川と目黒川間の淀橋台として東へ広がり,後者は更に南東の池上本門寺に至る立合川と呑川間の荏原台として東に延びる.また,田園調布の西には40m閉曲線が,呑川の谷によって荏原台から分離した高台の存在を示している.吉川虎雄(1948)はこれらの高台地域は武蔵野礫層に覆われず,その間にある礫層に覆われる扇状・地形面よりも古い,多く開析された地形であると述べた.
貝塚爽平・戸谷洋(1953)は台地東部の地形面を上位より淀橋面,豊島面,本郷面に3大別した.淀橋面は淀橋台と荏原台との地形面である.豊島面は神田川以北,ほぼ小石川の谷以西の池袋を中心とする豊島台の地形面をいい,淀橋面との比高は約5mである.本郷面はほぼ小石川の谷から中山道に沿って西北西に続く崖線以東の小石川,本郷,上野の台地の地形面で,豊島面との比高は5m前後である.神田川南岸に沿う幅約1kmの段丘,宮城や目黒川の南岸に沿う荏原台との間にある幅約2kmの段丘もほぼこれに対比される.淀橋台の西の続きは上高井戸付近で不明瞭となり,豊島面あるいは本郷面の延長に覆われているようにみえる.武蔵野台地東部では,図2.2.12でもみられるように,豊島台,神田川南岸段丘,石神井川以北の平坦な台地(成増台)などはそれぞれ崖線で境され,形成時代を異にする段丘面と解されるが,西するに従ってその境が不明瞭となり,1つづきの台地面となる.吉祥寺付近の広い台地面を武蔵野面とすると,この面の連続が東の山の手台地では2つまたはそれ以上の面に分かれることになる.貝塚,戸谷は河成段丘礫層を欠くことから,淀橋面を東京層の堆積面と考え,これを下末吉層の堆積面である鶴見,横浜背後の下末吉台地の地形面に対比した.また,豊島面と本郷面は東京層を切る侵食段丘面であり,両面の段丘砂礫層はともに山ノ手砂礫層と呼ばれるが,豊島面は本郷面より上位の段丘面で,山ノ手砂礫層も上下関係にある2つの段丘礫層から成るとした.下末吉層や東京層最上部を堆積した下末吉海進時の海水準は現在の海抜高度50m前後にあって,当時の多摩川はこの水準を基準面として,古東京湾に浅海性の東京層最上部を堆積しその西方には古武蔵野とも称すべき扇状地あるいは氾濫原平野を形成した.やがて海退があり,武蔵野を流れた多摩川は東京層の堆積面である海岸平野(淀橋面)を延長川として流れ,海岸平野の前面から下刻を始め,浅くて広い谷を形成し,やがて谷を理めて砂礫層を堆積し(小海進があったらしい)豊島面を形成した.その後また海退があって多摩川や荒川等は同様に古い地形面を浸食し,本郷面を形成した.すなわち,豊島面や本郷面は主として延長川の形成した氾濫原であると考えた.
壽圓・羽鳥(1954)は武蔵野台地南縁の河岸段丘を区分し,立川市より東方では台地の主面である武蔵野面より下位の河岸段丘面である立川面が,前者との比高を西方へ減じ,立川市より西方では台地の主面となることを指摘し,大観して従来一続きの扇状地面のようにみられた台地面は,狭山丘陵を境にして.厚さ1〜2mの立川ローム層をのせる西方の立川面と,厚さ6m前後の武蔵野ローム層をのせる武蔵野面に分かれることを明らかにし,また,台地西縁の金子台の段丘礫層上には武蔵野ローム層の下に厚さ3〜4mの火山灰層(下末吉ローム層)をのせ,その段丘面は日野台地段丘面に対比されるとした.その後,壽圓(1956)や戸谷(1956)は金子台,所沢台,淀橋台を下末吉面とし,武蔵野台地の洪積期段丘面が下末吉面,武蔵野面,立川面に大別されることを図示した. 貝塚(1957)は青梅を起点としほぼ台地面の傾斜方向にとった,立川段丘に沿い一部は東京の山の手に及ぶA(南部)断面図,狭山丘陵及び所沢台を通る東西方向のB(中部)断面図,金子台に沿うC(北部)断面図を比較し,武蔵野台地の北部は南部に比して東に下る撓曲を受け,しかも古い地形面ほどその影響を大きく受けているとみた(図2.2.13).次に.台地をきざむ谷を埋めて武蔵野面の第高線を作図し,その等高線がもっとも東へ張り出している所(図2.2.12の0m線)を武蔵野面のもとの傾斜と仮定し,この傾斜を用い,狭山丘陵や金子台の現在の輪郭をもとにし,青梅を頂点とする水平な振子の軌跡として,武蔵野面の原形を示す復元された等高線を描き,これと前記の現在の等高線との高度差を求めて等変位線を描き(図2.2.12),台地北部の北東に傾き下る撓曲による変形を明らかにした.
武蔵野台地の下末面,武蔵野面,立川面に属する各段丘面の傾斜は順次その順に急になっていて,各段丘面は斜交し,西方では下位段丘面が上位段丘面を覆って,両面が連続的に漸移している.壽圓(1961)は,特に,立川段丘が西方では武蔵野段丘の上に鏡餅式に重なる合成扇状地の地形をなし,中央部では武蔵野段丘より下位の河岸段丘となり,東方では現河床に埋没することに注意し,これは気候変化と海水準昇降に関係し,前氷河地域に形成される斜交段丘の地形発達を示すものではないかと考えた.しかし,海岸平野を流れる延長川と合成扇地,古多摩川の流路変遷,青梅における古期岩類の多摩川による下刻状態,立川段丘礫の粒径が現在の多摩川河床礫よりも小さいことなどに関係する地形学的問題から.立川面の急勾配の決定は主として傾動によるものとし,上記斜交段丘の発達を,武蔵野面形成以後立川面形成期にかけ,両面の比高を下流方向に増大させるような傾動(すなわち,下流のほうが多く下刻されるような上流方向への減傾斜運動)があり,その後は立川面と現河床面との比高を上流方向へ増大させるような傾動(すなわち.下流のほうが堆積物で埋積されるような増傾斜運動)が継続したことによると考えた.
羽鳥・井口・貝塚ら(1962)は立川段丘や拝島段丘の礫層の基底と多摩川下流の沖積層との関係を論じ,第四紀末の東京湾周縁の地形発達は主として海水面の変化によるものとし,気候変化と対応させる見解を示した.壽圓(1964)は青梅砂礫層や立川段丘を切る断層のないことから,立川段丘形成期ないしその直前には八王子構造線に関係する断層運動はなく,山地側が台地に対して相対的に隆起した形跡のないこと,また,武蔵野台地の各段丘礫層の大きさ(中央粒径)を測定し(図2.2.14),青梅からほぼ等距離にある場所の大きさを比較すると,一般に青柳段丘礫を除き下位段丘礫ほど大きいが,例外的に礫の小さい青柳段丘の規模は小さいので,気候変化があったとしても,地形へのその影響はあまりなかったものと考え,台地の段丘地形の発達は,海水準昇降だけで説明することは困難で,なんらかの傾動が関係するものとした.さらに(1965a),各段丘面の傾動を定量的に知る必要があると考え,現在の河床礫と段丘礫との中央粒径を用いて,段丘が河床であった当時の縦断形を示すと考えられる,元河床の距離−高度曲線の実験式を求める方法を案出し,各段丘面の現在に至るまでの傾動や,各段丘面形成時代の傾動を明らかにした.かくて,長年の調査結果をまとめ,精細な多摩川流域における武蔵野台地の段丘面区分図(付図1)と段丘面縦断投影図(付図2)を示し,その段丘地形の発達について論じた(1965b).この論文で論じた武蔵野段丘は国分寺崖線に段丘礫層が露出する武蔵野第2段丘M2である.背後の武蔵野第1段丘M1の段丘崖は緩斜面になっていて,両段丘の境ははっきりした崖線をなさず,鳥山川上流の谷(大番山,高山の南側)から仙川上流の谷に入り,玉川上水の南側に沿って東京学芸大学北側の谷に続き,それより恋ヶ窪の谷上流を通り五日市街道の南側(立川市若葉町一丁目)の谷頭に追える.
横須賀市の小原台には武蔵野パミスより下の2〜3mの間に,径数mmの黄色浮石粒の散点する褐色ロームがあり,その下に厚さ90cm前後の黄橙色を呈する小原台パミスがある.これと同様の層準にあることから,壽圓(1969,1970a)は藤沢市善行付近でみる藤沢パミスや下末吉台地の親子パミスは同一浮石層と考え,親子パミスの上にくる栗ようかんと呼ばれる浮石層は上記黄色浮石粒がやや密集する部分と考えていた.そして,金子台や所沢台や白子川下流の板橋区成増や和光市白子に発達する,厚さ20〜40mの白橙色パミスは小原台パミスないし親子パミスと考え,段丘礫層上に小原台パミスをみる段丘は下末面段丘とし,日野台地や東久留米市神宝町の黒目川左岸の段丘崖のように,上記黄色浮石粒散点層準以上の下末吉ローム層上部を段丘礫層上にのせる段丘をM1,また段丘礫層上に東京浮石より下の武蔵野ローム層までのせる段丘をM2,東京浮石以上の武蔵野ローム層をのせる中台段丘(京王線つつじヶ丘駅のある段丘)をM3とし,武蔵野台地西部の地形面区分図を示した.
小林国夫(1961,1962,1963,1965)は下末吉台地の親子パミスの20〜50cm上に,黒雲母片を含む厚さ5cmほどの白色浮石を認め,これを信州ローム層の小坂田ローム(中期ローム)層下部にみる御岳第一浮石層(磁鉄鉱,角閃石,ジルコンなどの含有で特徴づけられる)Pm−Tとし,皆川紘一(1968)はその上約1.8m上方にある厚さ5cmの黄色軽石粒の密集帯を栗ようかん軽石層(Ku−P)と呼び,町田洋(1971)はこれを小原台浮石OPに対比した.また,小林ら(1968)は前記した成増や白子に発達する白橙色パミスがPm−Tであることを明らかにした.壽圓はPm−Tの対比に疑問を持っていたため,下末吉台地の親子パミスと成増・白子のPm−Tをともに小原台パミスに対比していたが,上記町田の対比により,武蔵野台地,下末吉台地におけるPm−Tの存在を認めるようになった.
その後,杉原重夫ら(1972),町田瑞男(1972),加藤定男ら(1973)などが武蔵野台地の関東ローム層,段丘礫層,地形面区分など,段丘面の形成などについて論じたが,従来の研究を踏襲するもので,台地の形成機構や開析に関する地形プロセスの研究はまだ進んでいない.図2.2.1の武蔵野台地の地形面区分は杉原ら(1972),入間台地と大宮台地の地形面区分は町田瑞男(1972)の区分を参考にして書いたものである.すなわち,下末吉段丘は三色アイス浮石以上の下末吉ロームを,武蔵野第一段丘はPm−T浮石以上の下末吉ロームを,武蔵野第二段丘は武蔵野ロームを,それぞれ段丘礫層(砂礫層の上部が砂質粘土層ないし粘土層のこともある)の上に風送陸上堆積層として重ねる段丘である.従来の区分と著しく異なるのは,従来下末吉段丘とされた大宮台地と,大部分が立川段丘とされた入間台地とを,町田の報告に従って武蔵野段丘としたことである.