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下末吉台地は,元来は高度40m前後の,横浜市鶴見区の台地を指すものであったが,1955年ごろから,関東ローム層研究グループの人たちによって,多摩丘陵東部の60m等高線より東側の高度40〜50mの台地全域の呼称とされるようになった.矢部・青木(1927)はここをM面としたが,青木・田山(1930)は中間段丘TM面に訂正した.東木(1930)はここを武蔵野面に対比し,武蔵野台地より開析が進んでいるのは,T面にあった河網の影響によって侵食谷が複雑にされたためと考えた.大塚(1930)は,ほぼ50m,60m両等高線を追跡することにより,多摩川沿岸溝口より小机を経て横浜市磯子を結ぶ線以東に武蔵野台地面Du1が発達することを認め,その後それをDu1と多摩丘陵面Dlとの遷移面Du1aに改め(1931),それを下末吉層の堆積面とした(1937)が,その調査は台地の東縁部に限られており,内部の台地面を浸食面とみる疑いがなお残されていた.吉川虎雄(1948)は下末吉層の堆積した海面を60m前後において,多摩丘陵東部平坦面を下末吉層の堆積面と考え,多摩面の一部には下末吉層の海面に応ずる陸上平坦面が含まれる可能性を指摘した.成瀬洋(1952)は多摩丘陵東部の100m前後の地域(上星川泥岩層や鶴川互層発達地域)が第三紀層や屏風ヶ浦の侵食面で,それが東部の40m前後の地域を構成する下末吉層の堆積物の供給地をなしたものであろうと述べ,吉川の意見に応えた.徳永ら(1949)や壽圓(1951)は多摩丘陵東部に屏風ヶ浦層や下末吉層が溺れ谷を埋めた形で堆積していることを指摘し,現在の谷系に沿って下末吉層を構成層とする河岸段丘が発達していることに注意し,また,下末吉層が鶴見区の下末吉台地の構成層であることを認めていたが,それは多摩丘陵東部の下末吉台地全域に厚く発達するものではなく,その大部分の地域は波食台ではないかと考えていた.その後,羽鳥・壽圓(1958)は下末吉層の発達分布を精査し,下末吉台地の構造を示すパネルダイアグラムや,波食台と堆積台との発達地域を示した(図2.2.17,図2.2.18).
関東第四紀研究会(1970)は下末吉台地で下末吉層とされた地層は,明らかな不整合をもって鶴見層と下末吉層に2分されるとした.すなわち,従来下吉末層の模式地とされた鶴見区下末吉では,下末吉層とされた地層の最上部の厚さ2〜3mの砂礫層(大塚のdm砂礫層)が下末吉面を形成した下末吉層とされ,この砂礫層を一見整合的に上に重ねる褐色細砂より下の部分は鶴見層とされた.新しく下末吉層の模式地とされた大倉山の切通しでは,鶴見層は三浦層を切る溺れ谷埋積層として発達しており,下末吉層は更に鶴見層に谷状の不整合をもって,7m以上の厚さの泥層を重ね,その上に下末吉ローム層に覆われる約2mの細礫混じりの砂層を重ねている.ここでは下末吉層は鶴見層を切る溺れ谷を理積した下層部と,それを覆う上部層に区分される.この報告によると下部層が分布するのは鶴見川沿いの地域のごく限られた地域で,下末吉台地の大部分の地域は,厚さ2〜3mの下末吉上部層のみを水平的に堆積する波食台とされる.多摩丘陵東部のT2面丘陵地域や下末吉台地は,河系に沿いS面やM面,Tc面の河岸段丘がよく発達している(図2.2.19).
大田陽子ら(1970)も横浜付近の下末吉台地の段丘面とその高度分布図,下末吉層基底の地形と下末吉層の岩相分布などの図を示し,基底地形と現地形との対応を述べている.