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明治維新以後,我が国は急速に近代化への道を歩む.河川行政の面では明治前期の揺籃(ようらん)期を経て,明治29年の河川法制定により一応の体系が確立される.河川技術の面からみると,明治政府による西欧科学技術の導入が図られ,いわゆるお雇い外国人として,ファン・ドールンやデレーケなどのオランダ人技師が明治前期の我が国河川技術の指導にあたり,一方ではフランス留学を終えた古市公威や沖野忠雄などが,我が国の河川の特性や治水策を基礎としながら,西欧近代技術の適用を図っている.しかし,明治中期以降の大河川を中心とした水害の頻発は,洪水防御を目的とした近代治水への要望の高まりをみせ,様々な分野から治水に関する意見が続発し,主要河川を舞台に治水論議が戦わされた.沿岸住民や府県議会などから数多くの建議や請願が登場したのも,こうした時代背景によるものである.多摩川においてもまた,明治中期から大正初期の大水害を契機として,治水に関する様々な動きが,沿岸住民や府県に見られ,近代治水への強い要請が湧き起こり,紆余曲折を経て,大正7年からの直轄改修着手への道のりをたどる.ここではそうした明治から大正初期の直轄改修に至るまでの経緯を各種の請願や建議,府県会の動向,事件を通じてたどってみる.