2.4 アミガサ事件と左岸異議申立
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2.4 アミガサ事件と左岸異議申立

 ……明くれば九月十六日午前一時,八幡社に集合する各部隊には何れも深き決心の色溢れ,意気天をも突かんばかりであった.二時十分鹿島田を経て小倉に至り,更に同志九十人と会す.末吉橋に至るや濁流滔々と渦を巻き,川口は溢れて渡る事を得ない.止むを得ず鶴見橋に迂回せんとしたが,此処は警官防備線の中心地なるを以て果して成功するかは疑はしい.種々協議の末,一同生命を賭しても此の末吉橋を渡らん事に決着した.

 其処で一同衣服を頭に結び付けて胸に達する濁流を押切り,親子兄弟互に助け合ひ相励しつゝ進み,幾度か濁流に押流されんとしては踏みしめ踏みしめ,漸くにして彼岸に達する事を得た.半月雲間に現れ,必死の一行を照らすに其の凄惨なる状態,叫び合ひ嶋咽する声と共に此世のものとも思はれなかつた.

 渡るに要せし時間約一時間半,先着順に仕度を整へて飯田道横町を過るに前後の間隔次第に拡がり,終に互に見失つて了つた.此時引返して来た鹿島田部隊五十余名は飯田橋横丁に於て同志二十余名が警戒の巡査に捕はれたる事を報じたのである.此処に於て又も進路を協議して居るうちに三百名の同勢が程ケ谷方面に向ひつゝある事を知らす者があり,之に勢を得て進み漸く迫付く事を得た.

 今や同勢五百有余,群がる警官も物かはと,或は神奈川台下,或は平治の鉄道踏切と到る所警官の垣を突破して潮の如く県庁に殺到した.

 これは川崎市御幸尋常高等小学校発行の『郷土史』の一節である.ここに生々しく記述された御幸村を中心とする沿川住民の切なる築堤請願実力行動がいわゆるアミガサ事件である.

 多摩川沿岸の住民らは前述のごとく明治33年以来多摩川改修問題について政府・貴衆両院に対し繰返し請願を行ってきた.なかでも橘樹郡御幸村から中原村にかけての一部地域は無堤部となっているため,洪水のたびに多大の被害を余儀なくされ,明治20年以来幾度も新堤築造を出願したが,許可がおりないまま歳月を重ねていた.明治43年水害後の臨時治水調査会で多摩川は第2期河川に編入され,直轄改修施行が遠のいたと地元住民らは考えたに違いない.そうした情勢の中,大正2年8月の大洪水はまたもや御幸村など沿岸町村を襲い,ここにおいて御幸村村長はじめ共通の利害をもつ11カ村代表は緊急協議会を開き,一同連印の上県庁に次のような新堤築造の請願を行うことに決定した.

         請  願  書

謹テ神奈川県知事閣下ニ請願仕致 其等居ヲ多摩川及鶴見川ノ沿岸ニ構ヘ業ヲ此地ニ採ルガ故ニ二川ノ氾濫ハ其等ノ最モ苦痛トスル所ニ有之候 彼安政六年ノ洪水ハ振古来未曽有トスル所ナリシニ明治四十年以来僅カ七年ノ間ニ於テ三度殆ト同一ナル大洪水ニ遭遇セリ之レ何ノ故ゾ其ノ因ル所多々アルベシト雖モ山林ノ乱伐砂防ノ不備,川底ノ堆砂,河口ノ寄洲,架橋ノ障碍,堤外立ノ繁生等枚挙ニ遑アラス,而モ其ノ原因タル日ヲ逐フテ益々増大セントス,ニ於テカ相当防御設備ヲ講スルハ誠ニ焦眉ノ急務ナリト信ス,近キ三大洪水ノ被害ニ鑑ミ左ノ防御設備ノ最必要ナルヲ確認仕致

 一,御幸村上平間,中丸子及下沼部ニ渉ル一千二百一間及中原村上丸子三百六十間合セテ一千五百六十一間ニ堤塘ヲ新設シ上下ノ堤塘ト接続スルコト

従来堤塘ノ欠如セルタメ多摩川ノ洪水ハ鶴見川ノ洪水ト相呼応シテ中原村,御幸村,住吉村,日吉村其他ノ諸町村ニ氾濫シテ其ノ被害ノ大ナル実ニ寒心ニ堪ヘナルモノ有之候,殊ニ対岸東京府側ニ於テハ多摩川ノ上下流ヲ通シテ堤塘ノ連続セルニモ拘ラズ御幸村中原村ノ沿岸堤塘ノ欠如セルハ甚遺憾ニ堪ヘズ殊ニ近来其ノ感ヲ深ク致候,其等至誠ヲ彼瀝シテ被害ノ調書ヲ添ヘ閣下ノ賢明ニ訴ヘ謹テ新堤築造ヲ奉請願候

                        誠惶頓首

   大正二年九月二十日

 ところがこの請願後も一向に新堤築造問題の進展はみられず,以後頻繁に出願を繰り返し,築堤許可を求めた.翌3年1月,神奈川県はようやく東京府に交渉したが,異議を申し込んできたため,結局内務省の許可を得ることができなかった.

 橘樹郡稲田村より下流の多摩川は,明治34年5月に河川法準用河川として指定されており,県費による築堤であっても,内務大臣の認可が必要であった.当時の多摩川の様子について,後に大正7年5月の臨時県会で有吉知事は次のように述べている.

 ……維新後ノ事デアリマスガ,其時代ニ於テハ東京府側ノ方ガ水害ヲ受クルコト多クシテ,神奈川県側ノ方ガ士地ガ高イト云フ関係カラシテ害ヲ受クルコトガ少カッタノデアリマス,然ルニ近年ニ至ツテハ東京府側ノ方ガ害ヲ受クルコトガ少クシテ,本県側ノ方ガ少シノ水デモ直チニ其害ヲ被ムル実況デアルコトヲ発見イタシマシタ,其ノ例ハ東京府側ニ於テハ堤防ガ十分堅固ニ出来上ッテ居ルニ抱ラズ,本県側ノ方ハ,或所ハ堤ガ有ルガ,或所ハ堤防ガ断レテ居ルト云フヤウナ,極ク連続ヲシナイ状況デアル故ニ斯ウ云フ害ヲ受ケルノデアリマス……

 したがって,無堤部であった御幸村,中原村沿岸に新提築造を要求することは,当然であった.にもかかわらず,東京府側の異議を入れて,内務省は従来無提部であったという旧慣を改めることは容易にできないといった理由により不許可の裁定を下している.ただし,かつて堤防が存在していたのであれば,その存在を証明する図面等の証拠物がある場合に,交渉の余地があるとの見解を示した.そこで地元側は寛延年間における3通の図書を発見して,再度神奈川県に陳情を行った.

 ところが大正3年8〜9月の2度の洪水により,前年に引続き被害をみた.水防中に濁流にのまれたが,辛うじて一命を取り止めた御幸村の村会議員秋元喜四郎は,身命を賭しても新堤築造の実現を図るべく決意し,9月10日,県庁に出頭して東京府との交渉結果を尋ねた.しかし,神奈川県の回答は要領を得ず,誠意がみられなかったようである.

 度重なる水害と陳情によっても一向に進展しない状況において,もはや一刻の猶予もできないといった空気が地元民の間にみなぎったであろう.地元民が結束を固めて新堤築造を実現させようという意識は急速に高まったことは想像に難くない.かくて秋元喜四郎はじめ水島得次郎,渡辺梅吉,小島水蔵,矢島常吉,田島健造ら7名と代理村長小島晋渕らは,9月15日,小倉村,鹿島田,町田村,江ケ崎,北加瀬などの関係地域の代表と共に新堤実現のための具体的な方策を討議した.その結果,要求がいかに強いものであるかを示すため,関係村民が大挙して当局に迫まるといった方法が確認され,直ちに次のような行動をとることが決定された.

 1,明16日午前2時出発の事

 1,服装は羽織を用いざる事,草鞋をはき且つ目印としてアミガサを冠る事

 1,進路は各字の随意とすれども成るべく警官の目を避けて目的地に達する様にする事

 こうしてはからずも「アミガサ事件」が起こるに至ったのである.地元民の実力行使に対し,県当局は代表10名とのみ面接するとして,石原知事と土木課長らが交渉の席に臨んだ.しかし,秋元らがこの間の顛末(てんまつ)を述べたものの,実力行使に対する注意を受けたほかは,要領を得ぬ回答を得ただけで,なんら進展を見るに至らなかった.

 そこで橘樹郡長は,9月19日に被害関係地区の有志を郡役所に招集し,多摩川築堤期成同盟会を結成して,大々的な運動を起こすこととした.同盟会の幹事委員らは直ちに行動を開始し,県当局との交渉,対岸荏原郡堤防の沿革調査などを進めた.その結果,次のような長文の陳情書を作成して提出した.なお,10月12日には,同盟会の熱心な活動に動かされてか,石原知事は土木課長を従がえて無堤地の視察を行っている.

         多摩川沿岸新堤塘築造陳情書

多摩川沿岸新堤塘築造ノ儀ニ付我神奈川県橘樹郡御幸村外十ケ町村人民総代其等謹ンデ内務大臣伯爵大隈重信閣下ニ陳情到候

仰モ多摩川ハ県下三大川ノ第一位ニ位シ対岸東京府ニ境界シ下流橘樹郡大師河原村ヲ経テ海ニ入ル而シテ同郡御幸村上平間ヨリ仝郡中原上丸子ニ至ル約二千間ノ間堤ノ塘設備ナキカ為ニ年々水害ヲ受クル莫大ナリ依テ新堤塘築造ノ儀十数度神奈川県知事ヘ出願致シ爾来県議ニ於テモ是カ調査中ノ趣キニ候得共明治四十年以来本年ニ至ル十回ノ水害ヲ被リ果穀ノ腐蝕耕宅ノ荒蕪等水害ノ惨状年一年甚シキヲ加ヘ今ニシテ之カ防禦ヲ為サゞレバ災害地ノ民疲弊ノ極ニ達シ終ニ救済スル能ハサルニ立至ルヤモ計リ難ク依テ特ニ閣下ノ明鑑ニ訴フル次第ニ有之候

近年ニ至リ斯ク頻々タル水害ヲ蒙リツツアル原因トシ重ナルモノヲ挙クレバ

  一,下流ニ架設セル三橋カ一原因

一,明治五年鉄道開通ノ結果六郷川ニ架橋セラレ水中ニ直径九尺余ノ橋柱三個ヲ増加シ九個ト相成候.加フルニ橋柱ハ直径一丈乃至一丈二尺ト増大ス,又明治三十八年京浜電気鉄道株式会社モ其下流ニ架橋シ明治四十五年之カ改築ヲ為シ水中ニ橋柱六個建設シ水面ニ尺以下ヨリハ直径九尺ノ円柱トナシ水面二尺以下ヨリ上方ハ継合セ角形ト為ス,猶亦其下流数十間内ニ六郷橋架設シアリテ橋柱数数十本ヲ有ス,以上三橋ハ三町以下ノ間ニ架設シアリ殊ニ鉄道院ノ橋柱中位ノ三個ハ楕円形ニシテ径一丈二尺余,又京浜電気鉄道株式会社ノ橋柱ハ角形ニシテ三十尺余モ有之依テ水流ヲ防支スルニ至リ之カ大洪水ヲ為ス一原因ニ有之候

  一,築堤及上置腹附カ二原因

一,往古洪水ニテ当蕪堤地ニ浸水スル場合ニ至レバ対岸東京府荏原郡矢口村大字下丸子仝矢口ノ如キモ亦蕪堤ナル故氾濫ヲ□ニセシ為メ水量洪水ニ終リ甚大ノ災害ヲ蒙ラサリシカ明治十二年ニ至リ大字下丸子ヲリ下流六郷村ニ至ル間築堤及上層ヲ施行セラレタルニ依リ被害増加シタルモ大洪水ニ至レバ両岸ノ堤塘ハ総越トナリ浸水浅カリシモ明治二十二年以降数回上置及腹附工事ヲ続行セラレ両岸ノ堤ハ今日ニ至レバ上置六尺以上ニ達シ氾濫区域限定セラレタル而已ナラス大字下丸子ニハ堤外畑中往時ヨリ横堤存在シ是カ水流ヲ遮断スル為メニ其反動ヲ当蕪堤地ニ及シ其結果従前ト同一ノ雨ニテモ三倍以上水嵩ヲ増加シ之カ大洪水ノ為ス原有之候

  一,堤外地ニ果樹密植カ三原因

一,往古ハ鉄道橋ノ上下対岸ノ畑ニ樹木ハ殆ント在在セサリシモ梨桃ノ流行ト共ニ明治三十年以来堤防外ニ果樹ヲ栽植シ且又果実ノ竊取ヲ妨ク為其周囲ニ木華ノ垣ヲ廻植シタル故一朝ノ洪水ノ際ハ激流ノ進路ヲ妨過スル為メ流水緩漫トナリ沈殿物(イグミト称スル泥土)ヲ洪水ノ度毎ニ五寸乃至二尺宛ヲ置キ去リ明治二十年頃ヨリ漸次其ノ土ヲ高メ今日ニ至リテハ六尺乃至一丈余ト相成候依テ氾濫ノ水深ヲ浅薄ナラシメ之カ大洪水ヲ為スノ三原因ニ有之候

  一,砂利採掘カ四原因

一,明治二年頃ヨリ砂利堀開始致シ別表ノ如ク鉄道院六郷鉄橋ヨリ上流本郡高津村二子ニ至ル約三里ノ間ヨリ百三十二万立坪ノ砂利ヲ採掘為シ平一坪ヨリ立五坪ニ当ル即チ三十尺平均ニ三里ノ長程ヲ浚渫セシト同様河底ヲ低メン故平水ノ際ハ岸両畑地(明治二十年頃迄ハ現今ノ畑地ハ多ク石河原ナリ)ト非常ノ高低アルカ故ニ洪水ノ際ハ河真ノ両岸畑地トハ水勢ヲ異ニシ流水緩慢ノ為メ三原因ノ如ク沈殿物(イクミト称スル泥土)ヲ洪水毎ニ五寸乃至二尺宛置去ル為メ今日ノ処ニテハ六尺乃至一丈余ノ高地トナリタル「之ト正反対ニ無堤ノ地ハ激流ノ為メ洪水毎ニ二三尺宛土壌ヲ流出セシム」為メ洪水ニ除シ従前両岸畑地面一丈五六尺ノ深サニ流水セシモ今ノ場合ニテハ大洪水ノ際ニテモ深サ五六尺ニ過ス故ニ降雨ハ少量ナルモ忽チ大洪水トナル四原因ニ有之候

右陳述四原因中第一原因ハ交通ノ機関タル故又第四原因ハ既往ノ事ニ故致方ナキトスルモ第二原因タル往古ハ対岸東京府モ亦無堤地ニシテ双方ヘ分水スルカ故ニ今日ノ如キ大ナル水災ヲ蒙ラサリシカ明治十二年東京府庁ニ於テハ新堤築造主任佐藤忠高ナル者ヲシテ下丸子ヨリ下流六郷村ニ至ル間ニ築堤工事ヲ施行セラレ今年七月二十三日ヲ以テ落成検査トシ室橋土木課長臨検セラレタル実証有之候 然レドモ当時ノ堤塘タルヤ低小ニシテ大洪水ニ際シテ総越ト為リタレバ当無堤地ヨリ浸水スルカ如キ事無之候明治二十二年以降数度上置腹附工事ヲ続行セラレ氾濫区域限定セラレタルニ困リ遂ニ橘樹郡上平間ヨリ中原村上丸子ニ至ル無堤地ヨリ濁流浸入シ同郡日吉村鹿島田小倉南加瀬ヲ経鶴見川ニ合シ大綱村,旭村,町田村,生見尾村ニ浸水シ海ニ入ル,斯ノ如ク洪水氾濫区域広大シテ其害田圃ヲ荒廃シ禾穀ヲ浸害シ或ハ家産人畜ヲ傷フ等其残害実ニ云フ可ラス其損害幾十万ナルヲ知ルヘカラズ沿岸人民ノ不幸之ヨリ大ナルハナク若シ夫レ東京府ニ做ヒ無堤地ニ堤塘ヲ築造スルニ非サレバ数万人ノ人民其ノ堵ニ安ズルヲ除去スルノ方法トシテ当無堤地ニ両岸堤塘ニ上置ナセシ程度ノ新堤塘築造ノ一策アルノミ之レ一日モ忽諸ニ附スヘカラサル焦眉ノ急務ニ御座候仮令ハ在来堤塘ニ若シモ一尺ノ上置ヲ為ストセバ無堤地ニモ一尺ノ堤塘ヲ築キ若シモ亦三尺上置キヲ為ストセバ無堤ノ地ニ三尺ノ堤塘ヲ築クコトハ公平ナル処置タルハ論ヲ挨タス 上置六尺以上ニ達セル今日迄無堤ノ地ハ依然其儘ナルニ儘リ浸水致スハ当然ノ事ト被存候間何卒被害民ノ苦患ヲ憫察セラレ将来洪水ノ惨害ヲ救済シ沿岸人民ヲシテ其業ニ安ンジ生命財産ノ憂苦ヲ除却スルノ方法ヲ講セラレン事ヲ只管閣下ニ懇願スル処ナリ依テ別紙図面相添ヘ謹テ奉願候 恐惶頓首

   大正三年十月二十九日

 このような陳情書を提出する一方,内務省などに対しても奔走を続けていたが,途中で同盟会内部に意見の不一致が生じ,一時運動の停滞を余儀無くされた.一方,県会においても,12月3日の郡部会で,多摩川築堤建議が提出され,可決をみている.

         多摩川築堤建議

県下橘樹郡中原村上丸子より御幸村上平間に至る約二千間の間堤塘の設備無さが為めに年々多摩川出水毎に濁流横溢し中原,御幸,日吉,住吉,大綱,旭,町田,生見尾其也各村に亘る広大なる地域を侵害し其損害額幾十方なるを知らず之れを放置せんか益々田園を荒廃し住民其堵に安んぜずして産業の発達得て期すべからず該地に堤塘を築造し此年の災害を救済するは刻下の急務なりと信ず依て来期議会に之れが施設を提案せられんことを望む

右府県制第四十四条に依意見書提出候也

                        郡部会議長 中川隣之輔

               右提出者 中村瀬左衛門 吉沢忠兵衛 椎橋仁助

 翌大正4年,郡道改修問題に端を発して,同盟会の各町村は利害の対立をみるに至り,御幸村はほとんど孤立状態に陥ってしまう.そこで秋元,渡辺,水島らは改めて郡道以西派を組織して,郡道改修を水害防止の目的で行うといった対策を立てた.

 この年の9月,神奈川県知事の更迭があり,石原知事に変わって有吉忠一が知事に就任した.新堤築堤問題について前知事からの引継ぎがあり,また秋元らの強い要請もあったのであろう.有吉知事は就任後直ちに新堤築造について内務省の認可を求めた.ところが,すでに大正3年の出願において,旧慣の変更は認められないとして不許可にしているとの理由で,内務省はこの再出願を認めなかった.そこで有吉知事は,無堤地である上平間天神台より中原村上丸子に至る郡道を水害防止の目的により改修することを認可する旨の通達を下すことを決定した.就任わずか2カ月後の11月初旬のことであった.御幸村上平間,中丸子,下沼部の3大字住民は,この決定にようやく悲願の築堤が形を変えて実現されることを知り,郡道改良速成期成同盟会を組織して対処することになった.翌大正5年1月25日,郡道改修工事は正式に認可され,4月に着工された.しかし,着工後間もなく4月18日に至り突然内務省より工事中止の命が下された.その理由は,郡道改修であっても,河川に影響を及ぼす場合には河川法に基づき国の許可が必要であるとのことであった.未認可で施行したことにより,責処分を受けながらも,有吉知事はそれならば公然と堤防築造として認可させようと,内務省と交渉を重ねた.その結果,内務大臣は郡道を堤防として認めるという裁定を下し,6月7日,改修工事が再開された.こうした経緯を経て,9月30日にこの新堤は完成し,12月18日には玉川尋常小学校で竣功式が挙行された.この席で,羽田郡長は,知事の奔走に対する感謝の意を込めて,新堤を有吉堤と命名した.

 有吉知事は治水について極めて熱心であった.着任早々多摩川の視察を行い,その治水の緊要なることを認め,再三再四内務省に対し根本的な治水策の策定を要請している.新堤築造問題にしても,前知事が内務省に要請し,その結果不認可となった経緯の引継書類を受けて,改めて出願する執拗さを持っていた.新堤完成までの経緯を大正7年5月の神奈川県会臨時郡部会での多摩川改修予算理由説明にあたり,次のように述べている.やや長くなるが有吉知事の奔走(ほんそう)を知るためにも引用しておく.

 ……前知事ヨリ私ガ引継ヲ受ケマシタ書類ノ中ニ,前知事ニ於テハ其水防ノ不備ナルコトヲ認メテ,其所ニ県費ヲ以テ堤防ヲ築クト云フコトニ就テ意見ヲ立テゝソレヲ内務省ニ稟議シテアルコトヲ引継ヲ受ケタノデアリマス,(中略)私ハ其稟議ノ引継ヲ受ケテ,誠ニ斯クアルベキコトデアルト考ヘ,必ズ是ハ内務大臣ノ認可ヲ得ラレルモノデアルト確信ヲシテ居ツタノデアリマス,然ルニ何ゾ料ラン十月デアリマシタカ,時ハ記憶イタシマセヌガ,其堤防ヲ築クコトハ許サヌ,詮議相成ラヌト云フ通牒ヲ受取タノデアリマス,是ハ実ニ私ノ誠ニ不審ニ堪ヘザルトコロデアル,東京府ノ方ニハ堤防ガズツト出来上ツテ居ルノニ,本県ノ側ニ於テハ堤防ガ無イ,無イカラ,其所ニ堤防ヲ築イテ水ヲ防ガウト云フ計画ヲ立テタノニ,其計画ハ詮議ガ出来ヌト云フコトハ,東京府ノ方ハ水ヲ防グ必要ガアルガ,神奈川県ノ方ハ水ヲ防デハナラヌト云フヤウニ聞エルソレニ就テ其理由ヲ問合セマシタトコロ,私ガ自身出頭シテ間合セマシタノデアリマスガソレハ斯ウ云フ水ニ関スル争ヒニ就テハ旧慣ト云フモノヲ客易ニ改メルコトハ出来ヌ,ソレ故ニ無堤地デ存シテ居ツタ所ハ,当分無堤地ト云フコトデ忍バセルト云フ外途ハナイ,既チ従前アツタ通リノ状況ヲ其ノ儘継続サセルノデアルト云フコトデアツテ,是ヘ更ニ再詮議ヲ求ムルト云フコトノ提案ヲ致シテ見マシタガ,遂ニソレハ一度イカヌト云フ詮議ヲ受ケマシタ為ニ用ヰラレナカツタノデアリマス,此ニ於テ私ハソレナラバ本省ノ許可ヲ得ラレヌカラシテ,先ヅアノ地方ガ水害ガアツタナラバ,其水害ノアル儘ニ放任シテ置クヨリ外仕方ガナイト云ツテ,之ヲ放擲シテ置クベキカ,或ハ何カ其他ニ之ヲ救フ途ガアルナラバ,之ヲ救フベキ方法ヲ講ズベキカ,私ノ職責トシテ素ヲリ放任スル訳ニハ往カナイ,是非トモ何トカ方法ヲ講ジテ之ヲ救フ途ヲ講ズルノガ私ノ当然ノ職務ト考ヘマス,ソレニハドウスルカト云ヘバ今ノ河川法ノ区域並ニ其ノ附近地ト云フモノハ,是ハ除キマンテ,私ノ当然ノ権内ニ属スル,其ノ区域ヲ外レタ所ニ工作物ヲ造ツテ,之ヲ防護スル方法ヲ講ズルヨリ外ハナイト考へマシテ,ソレデ諸君ノ協賛ヲ経マシテ,ソレニ対シテ道路補助費ヲ要求シタナラバ,ソレヲ町村ニ配付イタシテ,其町村ノ工費トシテ其所ニ一ノ工作物ヲ造ルコトニ致シマシタ,其工事半バニシテ東京府カラシテ毎日百人以上ノ人ガ来テ居ツテ,其工事ヲ監督シテ居リ,毎日毎日之ヲ本省ニ通報シタト云フコトデアリマス,私ガ其後ノ状況ヲ此所デ説明スル必要ハアリマセヌガ,遂ニ其結果,私ハ此所ニ居ツテ遂ニ一度モ内務省ヨリ召喚ノ命令ヲモ受ケズ,私ノ意見ヲ質サズシテ,直チニ其工事ノ中止命令ヲ私ハ受取ツタノデアリマス,併ナガラ私ハ目分ノ当然ノ権限ニ属スル事ヲ施行シテ居ルト,老ヘテ居ル,ソレヲドウ云フ訳デ其工事ノ中止ヲ命ジナケレバナラヌカ,私ニハ其理由ヲ発見スルニ苦シソダノデアリマスガ,其理由ヲ大臣ニ追究イタシタトコロガ,ソレハ矢張り河川法ヲ施行サレテ居ラヌ区域デアルケレドモ,其河川法ノ命令ノ解釈ハ,河川法ニ依テ尚ホ其附近地ノ工作物ガ河川ニ影響ヲ及ボスナラバ許可ヲ受ケナケレバナラヌト云フ解釈デアルト云フコトデアリマス,法律ノ解釈ハ素ヨリ執行者ノ責任デアリマスケレドモ,上級官庁ノ解釈ガ下級官庁ヲ羇束スルコトハ已ヲ得ヌ次第デアリマスカラ,私ハ其内務大臣ノ解釈ニ従ツテ此工事ノ中止ヲ命ジタノデアリマス,然ルニ東京府側ノ主張ヲ私ガ伝ヘ聞及ンダトコロニ依レバ,其工事デ出来タ工作物ヲ必ズ取除ケシムルト云フコトヲ言ッテ居り,取除力シメズンバ止マズ.私ニモ亦ソレヲ取除ケイト云フ命令ヲ出セト云フコトデアリマスガ,私ハサウ云フ命令ヲ附近町村ニ伝達スル訳ニハ往キマセヌ,併ナガラ其当時ハ内務大臣ガ不在デアリマシタガ,幸ヒニシテ台湾ヨリ内務大臣ガ帰朝サレテ,遂ニ内務大臣ノ裁定ニ依テ其工事ヲ前ニシタト同ジヤウニ堤防トシテ内務大臣ガ認メルト云フコトニ相成りマシテ,今其工作物ハ残ツテ居ルノデアリマス,其工作物ニ依テ是マデハ免レナカツタ,洪水ガ今日ハ免レルヤウニ相成ツテ居ルヤウナ次第デアリマス,併ナガラ斯ノ如ク紛争ガ起リ,要ラザルコトデァリマスガ,ソレガ為ニ私ハ遂ニ責ヲ被ムリマシタ,所謂認可ヲ得ナケレバナラヌ工事ヲ認可ヲ受ケズシテ執行シタ,即チ中止ノ命令ガアリタルニ拘ラズ,中止ノ命令ニ肯ンジナカツタト云フコトハ不当ダト云フコトデ,責ヲサレタノデアリマス併ナガラ是ハ成程サウ云フ事モァルカモ知レヌケレドモ,私自身トシテハ此地方ノ住民ノ安寧ヲ保護シ,其幸福ヲ増進スルト云フコトノ職務ヲ有ツテ居ル以上ハ,私ハ私ノ最善ヲ尽シタコト,信ジテ居ルノデアリマス……

 一方,有吉知事も述べているように,対岸荏原郡内の沿岸各村は,御幸村の新堤築造にあたり,旧慣を破って築堤することは左岸東京府側の堤防を相対的に弱めることになるとして,いっせいに異議を唱えた.工事着工直後の4月11日,左岸沿岸各村代表は,東京府と内務省に対し,反対陳情を行っている.こうした反対陳情は,更に4月25日にも重ねて行われた.反対陳情を受けて,内務省は前述のような工事中止命令を発した.4月26日には下丸子の蓮光院にて,右岸築堤反対の委員会が開催され,堤防撤去あるいは調布,矢口地先堤防を河岸へ移動させるなどの強硬意見が討議された.同日付の東京朝日新聞は,「府県間の大問題多摩川堤防善後策如何」(写真3.4.2 )との見出しで,新提案造問題を報じている.下丸子では反対運動の費用を大字会計で処理する決定をなし,4月30日には同じく蓮光院で大字大会を開き,全村民あげての反対運動に発展した.更に5月12日には,蒲田の妙安寺で荏原郡民大会が開催され,改めて堤防撤廃の確認がなされるとともに,19日に内務省へ再度出頭陳情することが決議された.この陳情に際しては,警官の目を避けつつ,約200名が内務省に参集したといわれる.

 こうした対岸荏原郡の大反対陳情にもかかわらず,内務省は新堤築造工事の再開を認め,反対運動は効を奏しないまま,多摩川改修工事の方向が打ち出されたことにより,大正7年1月19日,臨時委員会を開催して堤防問題終結の報告が行われた.しかし,東京・神奈川両府県間の堤防問題は,前述したように,大正5年末の東京・神奈川両府県の議会関係者による多摩川治水期成同盟会の成立と,その後の両府県連帯による多摩川改修施行の強い要請運動の展開を促し,結果的には大正7年度からの直轄改修工事の実現へとつながって行った.



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2.4 アミガサ事件と左岸異議申立