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徳川家康は,天正18年(1590)に小田原北条氏を攻め滅ぼした軍功という名目で,豊臣秀吉の命により旧領三河国から関東に移封され,江戸に本拠を構えて関東経営に当たることになった.広大な関東平野を手中に収めた家康が,まず直面した大きな課題は,未開発地の多い新領内に田畑を開発することであったことはいうまでもない.自己の実力の扶植という面ばかりでなく,長い間の戦乱で疲弊の極に達していた近郊農村の立て直しこそ,民政上の急務であったといえよう.この計画は,家康が江戸を中心とする新領を手にした時点から,すでに考えられ,やがて逐次江戸の後背地となる農村が開発されていったのである.江戸の南郊部に位置し,合計3,380町歩にも及ぶ広大な水田を灌漑した六郷用水及び稲毛・川崎二ヶ領用水の開削事業も,家康のかかる方針の一環工事として,慶長2年(1597)から起工されたもので,家康が行った初期における新田開発事業の実態を知るうえでも注目すべき点が多い.
家康のもとで,この大事業の実務を担当した人物が,小泉次太夫吉次(1539〜1623)である.小泉氏の子孫の家に伝存し,江戸末期に成立したと考えられる「先祖書」(大田区史編さん室蔵)には,彼は,清和天皇の後胤である小笠原信濃守遠光の三男植松兵庫頭信継から4代目に当たる植松右近助泰清の長男であったことと,植松氏はもともと甲斐国を本国とする一族であったが,泰清のとき,天文8年(1539)に今川氏真に仕えたことなどが記されている.しかし,泰清が氏真に仕えた年代を天文8年とするこの記載は,まだ2歳の幼児であった氏真に仕えたことになり,信憑性を欠くものである.「寛政重修諸家譜」では,この植松氏の系譜を清和源氏義光流の支流と推定し,小笠原大膳大夫政康から6代目が父泰清で,当時は上松と称し,今川義元に仕えて駿河国富士郡小泉郷に住したという.また泰清の数代前から今川氏の家臣であったとも記す.いずれにせよ,これらの系譜からみると,次太夫は,本姓を清和源氏とする小笠原氏の支流植松氏の出身で,小泉氏を名のった時期は家康に仕えてから後のこととされるが,両系譜の相違点も大きく,疑問だらけである.「寛政重修諸家譜」は次太夫吉次の代に小泉姓を名のったとだけ記して,改姓の事情を伝えない.また家康に仕えたのは天正19年(1582)だとする以外に,次太夫の前歴らしきものは記していない.これに対し,「先祖書」は,より詳細にその前歴を伝えているので紹介しておこう.
今川氏は,義元が永禄3年(1560)に桶狭間の戦で織田信長の奇襲に破れた後,その子氏貢が家督を相続して存続したが,次第に家運が衰え,同12年(1569)には,武田,徳川,北条らの各氏に領国を奪われて滅亡した.今川氏に仕えていた次太夫は,このとき小泉郷の旧領知を離れざるをえなくなり,どこかに退去していたという.天正10年(1582)2月6日,武田勝頼は信州下之諏訪へ出張して陣を構えた.信長と同盟を結んでいる家康の軍勢は,3月上旬に興津口から富士川の上流へ攻め入り,早川,岩間,市川の文珠堂のあたりで応戦した.このとき,次太夫は井伊兵部直政と本多佐渡守正信の斡旋で幕下に加えられ,「所々之案内存知之者ニ侯条,甲州信州之敵富士之麓エ出張侯間,御先エ罷立,敵ヲ追払可申旨」という上意で,その役目についた.この戦で次太夫は鑓をもって奮戦し,首級をあげるほどの働きを示し,敵を追い崩したという.しかし,自ら全身7個所に手疵を負い,とりわけ膝の筋を突かれて「チンバ」になるというほどの傷を蒙ったのである.家康は,その軍功を賞して領知750石余を与え,「チンバ」というハンディキャップのゆえに,軍事を離れさせ,代官職に任じて,武州5万石余の支配を仰せ渡されたという.その後,家康は稲毛川崎筋に御鷹野の折,しばしば次太夫の代官所に近い小杉御殿にお成りになり,駿州小泉郷出身であるから,植松を改めて,以後小泉を姓とするようにとのお言葉を賜って改姓した.その折に軍扇と領知750万石を拝領したというのが,「先祖書」の伝える次太夫の前歴である.
ところで,次太夫の生家といわれる植松家については,大山輝氏(「旅行アサヒ」’78・5月号)が富士郡小泉郷周辺を実地踏査し,若林淳之氏(静岡大教授)などの協力を得て貴重な報告をされており注目される.大山氏は,まず小泉という郷名を富士郡の中から2個所さぐりあてた.1個所は狩野川の支流である黄瀬川の中流あたりにあり,現在は裾野市に吸収合併されて地名を失った小泉である.かつて高橋源一郎氏(「武蔵野歴史地理」第3巻・昭和5年刊)が,「次太夫の郷里は駿河黄瀬川の沿岸で,かねて此種の工事の行われて居った所であるから,次太夫もその知識経験をもっていたであろう.」と誤った推定をされた場所である.しかし,大山氏は実地を踏査して,ここは旧小田原北条氏の領分に属していること,同市郷土史編さん室の牧野■氏の「黄瀬川が氾濫した事実はない.改修工事等の形跡もない.黄瀬川は谷が深く,用水の引きようがない.もっとも火山灰地で,水田がないからその必要もない.次太夫なる人物もまったく記録にない.」という談話などから,ここは次太夫の出身地ではないと断定した.
もう1個所は,潤井川中流の富士宮市小泉である,ここは旧今川,武田領に属する所で,「先祖書」所掲の「所々之案内存知之老」という次太夫を取り巻く地理的条件と一致する.さらに,「富士中腹に近いこの辺は,涸沢が多く用水は得にくい.それでいて雪解けのときはじきに氾濫するので,昔から治水には関心が高い.小泉から数キロ下の厚原から吉原市の伝法にかけては,鎌倉時代からすでに用水が建設され,植松姓を名のる樋代官がいた」という若林氏の談話から,大山氏は同地でこの樋代官を代々歴任してきた植松卓穂家を訪ね当て,同家所蔵の古文書,過去帳などを調査する機会に恵まれたという.そこで,同家の記録中から,同家13代植松右近助泰清……次太夫の父……の名を発見し,ここが「先祖書」や「寛政重修諸家譜」に記される次太夫の生家植松家であることを確認した.しかし,同家の記録からは次太夫に関する資料は一切得られなかったようで,同家の系図にも,次太夫の名さえ記されていないと報告されている.そこで同氏は,次太夫が小泉を称して武州に別家をたてたので,植松家は弟が家督を継いだ.そのため次太夫の名が出てこないのであろうと推論した.しかし,もし泰清の実子で,しかも長男であれば,その子が次太夫のように立身出世している場合,同家の記録中に残されていないほうがむしろ不思議である.この不思議な問題点は,次太夫が家康に仕えるために植松家の養子となったらしい事情が判明して解決するのであるが,これについては後述に委ねることとする.
植松家の記録では,初代は,甲斐源氏新羅三郎義光の孫清光の九男で,久寿2年(1155)に生まれた三郎兵庫助信清としており,小泉家の「先祖書」の伝える系譜と多少相異点がある.兵庫助は元服のとき,諏訪明神に松1,000本を奉栽寄進し,それを縁として植松を名のった.彼は承安2年(1172)に甲斐国より駿河国小泉郷に移住し,源頼朝が伊豆で挙兵したときから,その御家人として仕えたと家伝に記されているから,「寛政重修諸家譜」の伝える泰清のときから,小泉郷に任したという所伝はもとより,小笠原政康系とする系譜や,植松氏の世代数とも矛盾する.2代兵庫頭信継は,文治2年(1186)に小泉郷から1里ほどの所にある熱原(厚原)の地へ移り,ここで「農地を見立て土地を起立て水路を量り」鷹岡から伝法まで約2里半の用水を開掘したという.この鷹岡伝法用水によって,富士宮から吉原に至る多くの村落が潤ったので,その功績によって植松氏は,以来,明治初年に至るまで,682年間もこの地の樋代官として,有力な地歩を占めるに至った.
今川氏に仕えたのは,7代喜内清直から13代泰清までの間とされ,次太夫については,13代泰清の長男であったが,家康に仕えて小泉姓を名乗り,別家したと伝えられる.とにかく,樋代官を勤めたほどの家柄である植松氏の当主泰清の,たとえ養子であろうとも,かりに系図上長男とされる次太夫であるから,当然用水,治水関係の土木工事に精通していたであろうことは容易に想定しうる.大山氏は,それらの記録と,さらに本門寺用水堀の開掘工事に着目して,次のように述べている.
富士宮市北方8kmほどの北山に,日蓮宗大本山富士山本門寺がある.本門寺には「本門寺用水堀」というのがある.本門寺の北方8km,白糸の滝のある横手沢から掘を切り,昭和38年上水道が完成するまで,実に381年間も,旧井出,北山,山宮,万野,外神,宮原,和田村の7カ村の飲料水,灌漑用水に使用されていた.伝承によると「天正10年3月,徳川家康武田攻めの甲州入りの途次,本門寺日出上人に要請して宗祖御真筆の御本尊1幅を借用して馬前に立てて進むうち,天目山にて敵の弾が御本尊に当たって危難をまぬがれた」とある.この返礼のため家康は井出甚之助に命じて12km強の用水を,開削させたものだという.だが前出若林淳之静大教授は「短期間で開削しているところからみて,鎌倉のころの形跡の改修工事ではなかったか」と推定する.日蓮の6老僧の1人,日興による北山本門寺の開創は,植松氏2代兵庫頭信継が,文治2年(1186)に鷹岡伝法用水を開削してから120年後の徳治元年(1306)である.富士宮市から山梨一帯にかけては,日興が天台宗と競合して布教活動にカを入れ,後から割り込んだ所だけに,日蓮宗派の寺は,へんぴで水利に不便な所が多い.植松兵庫頭信継以来の同家の用水技術や知識が,本門寺用水堀をはじめ付近の用水開削に重用された公算が大きい.
ところで,家康が武田勝頼攻略の帰途,井出甚之助に命じて本門寺用水堀を開削させた天正10年3月の1カ月前は,不思議なことに次太夫が家康に仕え,富士川の上流岩間,早川で初めて武田武士と闘い,ささやかな武功をたてて家臣にめしかかえられたときでもある.次太夫が,今川家に預けられていた時代の家康と同僚の,旧家臣の子であるとはいえ,無名の敵の首を1つ2つ取った程度では,これはいささか厚遇にすぎる.家康が今川,武田の家臣を多く採用し,上層部を強化した事例とも違う.家康という恐るべき政略家は,次太夫が鷹岡伝法用水を開削した植松兵庫頭信継の縁者であり,伝承された土木技術や知識ばかりか,彼が鎌倉時代以来の本門寺用水堀の実態さえも知っていることを,先刻承知していたのではないだろうか.そのため家康は,次太夫を井出甚之助の下で工事に従事させたに違いない.彼がいなければ,仮に改修工事であったとしても,そう短期間では竣工しなかったであろう.次太夫は,この本門寺用水堀工事で,恐らく卓越した技量を示し,家康に認められたものと思われる.この推察が正しければ,その後8年間,たいした武功もなかったのに,天正18年家康とともに江戸に入府すると,破格の昇格をし,武州5万石余の代官に任ぜられた謎が解けてくる.
このように,次太夫が,用水開掘ないし治水事業の専門家として,家康に重用された理由が次第に明確になってきた.しかも,彼とその一族の背景には,強固な日蓮宗富士門流の信仰による門徒意識と,連帯関係がみられる.彼の信仰心の深さは,廃寺同様になっていた川崎小杉にあった妙泉寺を,富士門流の寺として,慶長6年(1601)に再興した事実からも窺い知ることができる.妙泉寺再興の事情については後述に委ねるが,次太夫とその背景に存在した人物像を明らかにする方法は,北山本門寺を中心とする日蓮宗富士門流の,信徒層との関連を調べてゆくことが問題解決の鍵となる.
ところで,北山本門寺草創以来の大檀越として著名な石川氏一族が,最近「石川龍胆会」を組織して会報を発行し,これに石川氏と次太夫の関係がとりあげられていることを知った.もちろん,上述の植松氏の資料なども駆使されて次太夫の事績が紹介されているのであるが,驚いたことに「石河氏系図」などの新史料も発見され,石川氏,植松氏と小泉氏とが重縁関係にあったことも明らかになったというのである.「会報」の4号(昭和50年刊),6号(同51年刊),9号(同53年刊)などに関連記事を載せているが,とりわけ12号(同55年刊)は詳しい.これらの記事によると,次太夫の実父は,石川左衛門尉親範,豫親,親信の3代に仕えて,石川5人衆の1人に挙げられる小泉佐渡であるという.親信の子久成が富士郡重須郷に還住した関係で,小泉氏一族も近くの小泉郷に帰住し,次太夫はここで成長した.やがて次太夫が家康に召し出されて,その幕下に属することになったとき,久成の斡旋で,石川氏の縁戚である厚原の植松泰清の養子となり,その家格をもって家康に仕えたという.その理由は,樋代官を歴任した土木技術専門家としての家柄のよさと,大淵衆と呼ばれる治水関係の技術集団の頭領という地位にあったことによるらしい.
石川久成には5人の娘がいたが,次女を次太夫の妻とした.川崎市宮前町の妙遠寺には,次太夫夫妻の2基の5輪塔が現存する.銘文によると,元和5年(1619)10月に,次太夫が,自身と妻の,滅後の冥福を祈って生存中に建立したいわゆる逆修供養塔で,恐らく夫妻の遺骸もここに葬られたのではないかと考えられている.この墓の銘文及び同寺の記録によると,妻の法号は蓮正院妙周日遠で,この人物が,恐らく石川久成の次女であったと思われる.また次太夫の逆修供養塔には,正面に「為日久逆修■也」と建立の意趣を記し,右側面に「小泉次太夫藤原吉次」と自ら刻しており,彼の本姓が植松氏の源姓とは違う藤原姓であったことを明らかに示している.だとすると,この石川龍胆会の「会報」に記されているとおり,植松氏を称したのは家康に仕えるための手段であって,泰清の実子ではなく,養子として一旦入籍し,間もなく本来の小泉氏に戻って藤原姓を名のったものと考えてよかろう.
次太夫が家康に登用された理由は,上述のとおり彼を取り巻く郷里の同族的環境が,治水,用水ないし坑掘などの土木技術者集団であったことによることは,もう疑う余地がない.天正19年(1591)関東移封に際して,家康の構想のなかには,多摩川河口部周辺のデルタ地帯に広がる広大な地域の新田開発プランが,すでにできあがっていたのであろう.次太夫が家康に随伴して川崎に移住したとき,彼は53歳という円熟した年齢に達していた.それから慶長2年(1597)用水開削に至るまでの約7年間の彼の行動は,ほとんど知られていない.川崎妙遠寺の寺伝では,文禄2年(1593)に駿河国から橘樹郡川崎に移ったと伝えるが,その確証とすべき史料も見当たらない.「先祖書」でほ,彼の天正10年(1582)の軍功が,後に家康の関東移封の際に褒賞されて,「御感領知」として荏原郡下袋村300石余,麹屋村300石余,豊嶋郡蓮沼村130石余,都合750石余を拝領し,武州5万石余を支配する川崎代官を仰せ付けられて,川崎に移住したと記されている.旧来の伝記は,みなこの書の記載を引用して,次太夫は六郷用水開掘以前から代官職に就いており,領知750石余を有していたとするのが通説である.しかし,この書には領知受領及び代官就任の年代が記されておらず,用水開削以後の功賞と混同して,明確さを欠く結果を生じたように思われる.いずれにせよ,家康の関東移封から間もなく,次太夫は家康の命令で川崎の何処かに移り住み,多摩川の治水工事に従事していたことだけは間違いなかろう.
山田蔵太郎氏(「稲毛川崎二ヶ領用水事績」)は,「彼が召されて関東に移るに当って,小泉郷の邸宅を寄進して一寺を建立した」として,駿河国富士郡小泉郷の久遠寺がそれだという.しかし,久遠寺(富士宮市小泉1649)は,当寺の「縁起書」によると,建武元年(1334)に宰相阿闍梨日郷が開創した古刹で,その後康永4年(1345)には光明天皇によって勅願所と定められたほどの由緒深い寺であるから,この説は信じ難い.ただ,当寺の開創に当たって,土地の有力豪族であった南条時綱,石川孫三郎,椎津四郎,佐野助右衛門や,小泉郷の遠藤勝久らが外護の大檀越となったといわれるから,石川氏有縁の小泉氏にとっても,代々菩提寺として崇敬してきた寺であろう.最近,この寺に次太夫の供養墓碑があることが判明(石川龍胆会「会報」12号)したことも,その証左となる.久遠寺は,「天正元年,富士九郎次郎が反逆して,兵火のため諸堂悉くが鳥有に帰したので,五世日安が全国に遊説勧募した浄財で,漸く復興再建の任を果たした.時に境内八万九千七百坪,末寺百三十六ヵ寺,塔頭十二坊を数え,総門・黒門・山門・二天門・表門・赤門・出仕門・長屋門・本堂・客殿・大書院・白書院・大庫裡・下庫裡・鐘楼堂・太鼓堂・天王堂等が,天正十一年(1583)に完成」(「日蓮宗寺院大鑑」)と伝えられるから,このとき次太夫が外護の大檀越の1人となり,再興に大きな資援を寄せたのではなかろうか.
次太夫が川崎へ移住したのち,用水開削までの行動は,すでに述べたとおり明らかでないが,山田蔵太郎氏(「川崎誌考」)は,「若し徳川幕府が六郷新大橋架設の前提工事として多摩川の河身改修工事を起したとすれば,この三年乃至五年間にその任務に当ったものではなかろうか.」「用水掘を開設するに当っては,其の前提として多摩川に堤防工事を施したと見なければならない.然らざれば用水掘は永久に其の安全を保障されないからである.」と推論されている.さらに,同氏は「新編武蔵風土記稿」の橘樹郡諏訪河原村の項に注目して,多摩川沿いの同村が「しばしば村内水災ありしかば,掘を鑿ちてその水道を通じ,是が為に大に力を尽せり,その頃御代官小泉次太夫も溝洫のことをつとめしかば,かの指揮に従ひ,近村の人夫などかりたて,すみやかに事なれり.その後又稲毛川崎両所の用水を開かれし時,かの次太夫奉行せり」とあることにより,同村の名主小黒家の文言を調査した.そして,同家所蔵の古文書のうちから「年重り大水切々成故,水掘を築,其節次太夫殿被仰付ニテ隣郷□□普請成就セリ.夫より稲毛川崎用水御普請,次太夫殿御行,当里能キ竹有之故,用水御普請竹出ス」の文面を発見して,次太夫は用水開掘を始める慶長2年(1597)以前から,すでにこの方面に出動して多摩川治水のために活躍していたことは明らかであると論じている.
次太夫が代官職に就いたのは,用水開削のさなかの慶長6年(1601)のことであるから,「新編武蔵風土記稿」が,このころの次太夫を代官と呼称していることには問題がある.しかし,そのほかの点については,ブランクであった用水開掘以前の次太夫の行動を知りうる貴重な史料であることは言をまたない.おそらく次太夫は,この時期には川崎領内の何処かに本拠を構え,小黒家文書でわかるように,治水普請奉行か堤防奉行というような役職につき,用水敷設の前提となる多摩川の水防,改修等の工事に専念していたのではなかろうか.かくして次太夫の手によって,稲毛・川崎両領内の村々の治水対策は着々と成果をあげ,用水敷設に伴う新田開発の準備も,次第に整ってきたと考えてよかろう.