2.1 小泉次太夫と六郷用水
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2.1.2 用水の開削

 小泉次太夫が,慶長2年(1597)から15年の歳月をかけて開削した六郷用水は,多摩川の水を狛江市和泉で取水し,世田ケ谷領に入って深大寺付近から流出する野川,及び仙川,谷沢川などの悪水を合流,領内14カ村を灌漑して六郷領に入る.六郷領では,鵜木村から矢口村に至って南北に引き分けられ,南堀は蒲田,六郷,糀谷方面,北堀は池上,堤方,新井宿,不入斗に至って東京湾に注入する全長30kmにも及ぶ大規模な用水で,六郷領では35カ村の田地を潤した.同時に開削した多摩川南岸の稲毛川崎二ヶ領用水を加えると,全長62km,田地面積3,400ha,村落数109カ村に及ぶ.この用水は,多摩川北岸部では世田ケ谷領と六郷領,南岸部では稲毛領と川崎領の4ケ領を通っているため,別名を四ケ領用水,または開削者の名にちなんで次太夫堀,一部では女堀などとも呼ばれる.

 女堀と呼ばれる理由は,次太夫が開削に当たって,なるべく農業の支障にならないように配慮して,婦女子の労働力を多く用いたことによるとか,あるいは,男子10人に女子1人を加えて,工事中の人夫間の空気の険悪化を防いだことによるとする説もある.しかし,一般的に曲折のある堀の状態を女堀と称することが多いので,その類例ではないかと考えられる.女堀と呼ばれる個所は,六郷用水の下沼部村から嶺村にかけての間で,この辺は丘陵地帯を切り通したりして曲折も多く,工事に際し一番難儀した場所でもあった.しかも,後述するとおり,富士仙現の女神の夢告によって取水口を変更したりした場所なので,この女神の夢告によって掘られた女堀という,浅間信仰に由来した名称かも知れない.

 用水の落差は約20m,堀幅は本流が約5m,分流が約2m,水路の両脇には約3.5mの土揚敷が設けられた.前述の石川龍胆会「会報」(4.9.12号)によると,工事を開始するに当たって,次太夫は郷里駿河国富士郡小泉郷の近く,重須に住む縁者石川治左衛門吉久及びその一族である渡井六右衛門らを招いて,開削工事の技術指導の実務を担当させたという.石川吉久は,次太夫の妻の姉の聟養子で,次太夫にとっては甥に当たり,重須石川氏の本家筋である石川源左衛門久成の後継者でもあった.しかも,吉久の実家は望月氏で,富士金山奉行を代々勤めた著名な家柄に生まれているから,坑掘技術などの面では一流の腕前をもっていた人物と思われる.望月氏は,富士麓金山の中山堀間を経営した頭領の家柄であったというから,その輩下には,多くの坑掘技術者の集団を擁していたと考えてよい.富士の金山は,武田氏の領知時代に全盛を極めたといわれるが,徳川氏が支配するころになると,やや下火になったようである.吉久は,天正18年(1590)秀吉の小田原北条攻めに,家康に従って富士金山衆らとともに参戦した.戦勝ののち,吉久は秀吉の御供として大坂まで上ったが,その後,家臣としてとり立てられることもなく,郷里重須に帰って閑居していたという.

 次太夫は,稲毛・川崎二ヶ領及び六郷用水開削に当たって,彼等金山衆のもつ坑掘技術を必要としたことはまでもない.次太夫に招かれた吉久は,橘樹郡野川村に移住し,ここで知行を与えられたので,この地の字名も,いつしか石川と呼称されるようになったという.彼は次太夫の陰の力として,用水開削に多くの功績を残し,この大事業を完遂させた.寛永14年(1637)3月15日,73歳で没し,次太夫と同じ川崎砂子の里の妙遠寺に葬られた.同寺の墓石により,法号は蓮海と諡号されたことがわかる.なお,彼の妻(法号妙海)も正保4年(1647)4月22日,90歳の高齢で没し,同寺に葬られている.

 用水開掘以前の六郷領の郷村は,千束の池水溜と池上西谷水溜池に頼るだけの,乏しい水利状況であったため,村々の耕地はほとんどが屋敷畑で,1村7〜8軒から10軒程度という貧しい閑村であった(「新用水掘定之事」)その間の事情を、「北原家文書」(「世田谷区史」上巻所収)は,「城附南耕ニ至リテハ,多摩川ノ清流有リト雖モ甚ダ水利ニ乏シク,千束ノ池水ヲ灌ギ其他二三ノ溜井ヲ導クノミニシテ,稲田甚ダ僅々ナリ.故ニ村民常ニ稗粟蕎麦野米ヲ作ルニ止ル.故ニ人家稀疎ニシテ且貧ナル」と伝えている.このような状況下にあった郷村を,次太夫の力で用水を引き,豊かな穀倉地帯に変容させたのであるから,農民たちから用水の神様と神格化した呼称で崇められてきたことは,むしろ当然のことである.用水開掘の端緒は,このような郷村を視察して回った次太夫が,その必要性を家康に献言して容れられた(「寛政重修諸家譜」・「譜牒余録」所収,4代次太夫書上)ことによると伝えられる.しかし,むしろ家康の江戸南郊の穀倉地帯開発プランの,技術的指導者として次太夫が登用されたとみるべきであって,これらの史料だけで,彼の献言による新田開発と即断することはできない.また,この新田開発事業を,後の江戸近郊における新田開発のパターンと比較して,代官見立新田の典型的類型のひとつとする説もある.しかし,官営的色彩の強い初期的な新田開発事業でもあり,後に享保期を中心とした新田奨励策により,類型化した新田開発事業と,同列に解釈することは,まことに危険なことと言わねばならない.

 このように大規模な多摩川下流地域両岸の灌漑用水を,次太夫が,どのように設計して工事を実施したのか,またその費用はどのくらいかかったのであろうか,というような具体的な問題については,史料が伝存せず明確に知ることができない.ただ,この工事の手順や期間などの一端については,旧六郷領内の村々に数冊伝存した「新用水掘定之事」(「大田区史」資料編・地誌類抄録所収)という記録によって,ほぼ知ることができる.この書によって,六郷用水開削工事の経過を記しておこう.まず慶長2年(1597)2月1日から測量と杭打ちが行われ,その後2ヵ年を要して測量が完了した.次いで慶長4年(1599)正月9日から開削行事に入り,約10ヵ年にわたり,同14年(1609)7月5日に本流の開削を終え,引き続き同年より2年間をかけて,同16年(1611)2月2日に至り,村々へ配水する分流の小堀も竣工し,ここに前後15ヵ年を要した大事業が,めでたく完成に至ったのである.

 測量は下流地域から実施された.慶長2年(1597)2月1日,次太夫は蒲田に近い安方村の名主兵庫の宅を宿所として六郷領に出張し,同3日に領内の名主中をここに集めて工事計画を発表,直ちに村々の耕地へ見立てのために出向き,翌朝から毎日各村の名主2名ずつが宿所に次太夫を迎えに出て,測量,杭打ちの案内をすることになった.以来,同月20までここに滞在し,掘筋の測量と杭打ちを実施している.順序は,道塚村から始め,用水堀横幅8尺,土上道6尺,脇土手6尺,堀敷きならしと決めて小林村に至り,境杭を打ち,次いで道塚村境から安方村境までの杭打ちを行い,この要領で,小林村境から矢口村境,安方村境から鵜木村境へと順次測量を進め,ここで南堀側の境杭打ちを終えた.北堀側は堀幅7尺,土上道6尺,協土手6尺,堀敷きならしとして初境を決め,堤方村境から嶺村境,徳持村境から矢口村境,嶺村境から鵜木村境までの見立てを完了,途中,山出水2個所の処置を行い,南北引分け口は堀幅2問半,土手道7尺,脇土手6尺,堀敷きならしと決めた.2月21日から4月9日にかけては,川崎領に滞在して村々の見立てを行い,同10日から再び六郷領に移って,鵜木村の名主五郎右衛門宅を宿所として領内の測量を再開,矢口村境から嶺村境,鵜木村境から世田ケ谷領下沼部村境までの丘陵部の切り通しの測量を実施し,同29日までかかっている.5月1日から6月19日までの間は,川崎領へ移って同地の測量に従事し,同20日には世田ケ谷領下沼部村名主伝左衛門宅を宿所として出向き,谷出水の見分と多摩川からの用水取入ロの見立てを行った.したがって,当初の計画では,下沼部村のあたりで多摩川から用水を取水する方針であったと思われる.

 しかし,ここで多摩丘陵の南端部の古墳密集地帯,現在浅間神社が祠られている田園調布の丘にぶつかり,思いがけぬ障割に悩まされたようである.そこで次太夫は思案にくれてこの丘上に登り,思いをめぐらした.そのうち夜に入り,少しまどろんだという.すると夢中に女神の「爰者用水口悪敷,富士之腰万歳もかけず,山之腰を掘当て,富士仙現と山を申,富士之腰女郷と申」というお告げがあった.この「新用水掘定之事」の文章は,どうも難解であるが,「ここは富士仙現(浅間)という女神(木花咲耶姫)(このはなのさくやひめ)を祠るあらたかな万歳も欠けず山だから,切り崩すことはならぬ,この山の腰をう回して女堀を掘りなさい」.と夢告で指示されたとでも解釈したらどうであろうか.だとすると,この付近の六郷用水を,前述のように女堀と呼称した理由もわかるし,事実,六郷用水中では川筋が一番屈折している個所でもある.次太夫は,この夢告を聞いて「夢さめ,がっぱと起き」,それから女神のいうとおり,この山を切り崩さずにう回して工事を進め,大分上流にある和泉村(狛江市)まで掘りあげ,そこに取水口を定めることにした.

 この話は,次太夫の出身地の富士浅間信仰と結び付けた後世の俗伝と考えてよいが,この場所に現在も浅間神社が祠られており,あるいは次太夫が水の神として木花咲耶姫を崇め,治水祈願のため,ここをはじめとする用水敷設予定地の数個所に,故郷の浅間神社を分祠したと考えたらどうであろうか.それが,江戸期はもちろんのこと,現代に至るまで,この付近一帯に広く分布している富士講の始まりとなったのかもしれない.いずれにせよ,次太夫と富士信仰を結び付ける興味深い逸話として,民俗学上でも注目すべきものといえよう.

 かくして,嶺村境から上沼部村境までの杭打ち作業は7月12日に終えた.同13日から9月4日までは川崎領に滞在,同5日に世田ヶ谷領小山村名主重三郎宅を宿所として出張し,さらに世田ヶ谷領内の用水路の見立てを行った.下沼部村から小山村境の間には,途中用水の余り水を多摩川に切り落とす場所1個所を定め,同24日までの間に上沼部村境から等々力村境までの測量を終えた.翌25日から11月15日まで川崎領に滞在して,彼地の測量を行い,同16日等々力村名主兵左衛門宅を宿所として世田ヶ谷領に戻り,小山村境から下野毛村境,等々力村境から下野毛村境など,順次杭打ちを完了,悪水,余り水の切り落とし口1個所を設ける見立てをして,12月5日にこの年の工事をすべて終了している.

 慶長3年(1598)は,2月1日から稲毛領内の用水見立ての測量を開始し,3月10日まで彼地に滞在した.同11日世田ヶ谷領上野毛村名主佐内宅を宿所として出張し,上野毛村境から瀬田村境,上野毛村境から岡本村境の杭打ちを4月5日に終えて,翌6日稲毛領に移った.5月6日からは,世田ヶ谷領大蔵村名主市郎兵衛宅を宿所として,瀬田村境から鎌田村境,岡本村境から大蔵村境,鎌田村境から喜多見村境の見立てを行い,ここで谷出水の処置と用水余り水の切り落とし,洗1個所を設ける杭打ちを6月5日までに終え,翌6日に稲毛領の用水見立てに向かった.8月6日世田ヶ谷領喜多見村名主五郎右衛門宅を宿所として出張,大蔵村境から岩戸村境,喜多見村から和泉村境の杭打ちを行い,同25日に完了して翌日稲毛領へ移り,10月5日まで彼地の見立てを実施した.同6目上和泉村の山伏の所を宿所として岩戸村境から和泉村川原境までの測量に携わり,悪水落とし,余り水はずし,洗1個所を設ける杭打ちを行い,10月晦日までかかって六郷用水側の見立てをすべて完了,11月1日から12月5日の期間に稲毛領側の見立ても終えて,ここに計画段階の測量をすべて終了したのである.

 次太夫が宿所とした上和泉村の山伏宅は,のちに常泉寺と称された真言宗の寺で,いまは伊豆美神社となっている.同社には,表面に順正院宗可日久霊神,元和九癸亥年十二月八日寂,裏面に当社中興小泉牌と刻された古色ある位牌が伝存する.この刻銘によって,次太夫が,当社を中興するほどの外護を加えたことがわかり,その縁故の深さを知る好個の資料として注目される.また,取入口の近くに現存する水神の森は,伊豆美神社の分祠で,ここに次太夫の神霊が祀られているとも伝えられている.

 慶長4年(1599)正月5日から,いよいよ用水開掘工事を実施する段階に入った.この日,次太夫は六郷領安方村名主兵庫宅の宿所に,六郷領内の名主を招集して,普請御用触役に徳持村名主長右衛門,人足世話役に南堀側から兵左衛門,北堀側から伊兵衛を選び,名主中名代の才料という役目と,人足指図のための杖1本を与え,才料給は各村100石につき年額300文宛を両人に給付することを決めさせた.この月の9日,道塚村下境杭から南堀の開削にとりかかり,3月29日に至って矢口村の南北両堀の引き分け分水口まで掘り立てた.4月1目から6月24日までは川崎領側の開削に当たり,同25日に再び安方村名主兵庫宅を宿所として六郷領に戻り,9月25日までの間に,北堀の堤方村から矢口村までの掘削を実施している.同26日には川崎領へ移り,同年12月20日まで彼地に滞在して工事を進め,この年の開削作業を終えた.

 同5年には,正月5日から,鵜木村名主五郎右衛門宅を宿所として六郷領側の開削を進め,3月29日までの間に矢口村境から嶺村切通しまでの工事を行った.4月1日から6月晦日まで川崎領に滞在,7月1日に嶺村に戻り,9月26日までの2カ月間を要して,矢口村から嶺村切通しまでの開削作業を行った.この部分,つまり切り通しの作業が,いかに難工事であったかを物語るものであろう.同27日に川崎領へ移り,12月20日まで彼地の工事に携わり,この年の工事を終了している.

 同6年には,正月5日に六郷領鵜木村名主五郎右衛門宅の宿所に出張し,4月1日までかけて鵜木村境から世田ヶ谷領下沼部村境までの掘り立てを行い,同2日に川崎領へ移り,6月29日まで彼地の工事に費やした.7月1日から再び五郎右衛門宅を宿所として六郷へ戻り,9月26日までの間に,矢口村境杭から嶺村切り通しまでの掘り立てを,3度にわたって実施した.同27日から12月20日までの間は川崎領の工事を進め,この年の作業を終えている.

 「寛政重修諸家譜」によると,この年,次太夫は武蔵国稲毛・川崎の代官職を拝命したという.「譜牒余録」に収載されている次太夫の曽孫に当たる4代目次太夫の,天和4年(1684)2月の書上にも同様の記事があるから,この代官就任の事実は疑いないことと考えてよかろう.したがって,この年までは,次太夫は用水普請奉行の役職にあって,この工事を指揮してきたものと思われ,その功労が認められて,工事途中に武州5万石余の直轄領を支配する,代官の要職にとり立てられたと考えるべきであろう.ただ,問題とすべき点は,上掲の2書が,ともに用水開削開始の時期を,この年,つまり代官就任以後のこととすることで,これはなにかの誤伝ではなかろうか.

 次太夫の菩提寺である川崎の妙遠寺に伝存する「妙泉寺遺所之事」と題する元文4年(1739)8月の文書(写)をみると,この年,川崎の小杉にある妙泉寺(日蓮宗富士門流)は,房州保田妙本寺の日珍が願主となって,再興されたという.この寺は,応永年問に創建された古寺であったが,永禄のころに大破して,そのままになっていた.後に,この寺の住持となった日純の筆記の写しなども当寺に伝存しており,それらの文書などから考えて,どうもこの寺は,次太夫の外護丹誠によって再興されたとみて差し支えないようである.ちなみに,次太夫の本来の菩提寺である郷里小泉郷の久遠寺や重須の本門寺と,この妙泉寺は同系統の富士門流に属する寺であることも,その証左となろう.なお,妙遠寺に伝存する日純筆記ほか数点の古文書については後述する.

 同7年正月5日,次太夫は世田ヶ谷領下沼部村名主伝左衛門宅を宿所として,3月23日まで滞在し,嶺村境から上沼部村境まで工事を進め,同24日から6月17日までは川崎領へ移り,同18日から9月1日までの問,再び伝左衛門宅に戻って上沼部村下境付近を掘り立てた.9月2日から11月2日までは川崎領に滞在したが,同3日から12月20日まで,小山村名主三重郎宅を宿所として出張,下沼部村境下から等々力村境までの工事を行い,この年の掘り立てを終了している.

 同8年正月5日から3月15日まで,再び三重郎宅に滞在して,等々力村境付近の去年掘りかけの工事に携わり,同16日から稲毛領へ移って,彼地の開削工事を開始,6月6日でここに滞在している.同7日から7月29日までの間は,三たび三重郎宅を宿所として等々力村境付近の掘り立てを行い,8月1日から10月20日まで稲毛領へ移り,同21日には等々力村名主兵左衛門宅を宿所として出張,12月20日までかけて小山村境から上野毛村境までの間を掘り立て,この年の工事を終えた.

 同9年正月5日から2月15日の問,やはり兵左衛門宅に滞在した次太夫は,上野毛村境付近の去年掘りかけの場所を掘り立て,同16日から5月5日までは稲毛領へ移り,同6日から7月20日までの間は,上野毛村名主左内宅を宿所として出向き,下野毛村境から岡本村境までの開削に従事した.同21日から10月1日までほ稲毛領に滞在,同2日から12月20日まで大蔵村名主市郎右衛門宅を宿所として,喜多見村境までの堀筋の工事を行っている.

 同10年正月5日から4月5日にかけて,喜多見村名主太郎右衛門宅に滞在し,大蔵村境から和泉村境までを掘り立て,いよいよ世田ヶ谷領,六郷領二ヵ領の用水開削工事も終盤を迎えた.このころになると,工事進捗に伴い大分人手を要するようになったようで,同年正月9日,家康は「武州六郷竏稲毛いほり人足之事、私領方へも高次第申付可鑿者也」という文面の黒印状(「譜牒余録」所収)を次太夫に与えて,天領だけでなく,付近の私領内の村々からも人足を徴発することを許し,彼の権限を拡大したばかりでなく,用水開掘工事の促進を図ったのである.4月6日から7月5日まで稲毛領の工事を督した次太夫は,同6日に再び太郎右衛門宅に戻って11月1日までの間付近の掘り立てを行い,同2日に稲毛領へ移り,12月20日にこの年工事を終えた.

 同11年正月5日,やはり太郎右衛門宅を宿所とした次太夫は,4月5日までかけて大蔵村境から和泉村境までの工事を督し,同6日から7月5日までの間は稲毛領に滞在,同6日太郎右衛門宅の宿所に帰って,10月1日まで大蔵村境から和泉村境までの掘り立てを行った.同2日に稲毛領へ移り,12月20日まで彼地の工事を督している.

 同12年正月5日から4月5日まで,やはり太郎右衛門宅に宿所を構えた次太夫は,去年掘りかけの場所を再び施工し,同6日から7月5日までの稲毛領の工事に当たり,同6日に上和泉村の山伏小野氏の宅に出向き,10月1日までの間に岩戸村境から和泉村川原までの掘り立てを実施した.同2日には稲毛領へ移り,12月20日まで工事を行っている.

 同13年正月5日から4月5日まで,やはり山伏小野氏の宅に滞在した次太夫は,いよいよ最終段階に入った工事を督し,同6日に稲毛領へ移って7月5日まで彼地に在り,同6日から10月20日まで山伏宅に戻って,岩戸村境から和泉村川原境までの開削に従事した.この年は同21日に稲毛領へ移り,やはり12月20日まで工事を督している.

 このころ,大御所家康や,2代将軍秀忠が,駿府と江戸を往来する途中で宿泊したり,あるいは川崎筋や稲毛筋で鷹狩りを行う折に滞在するため,橘樹郡小杉村に,いわゆる小杉御殿が造営された.これと同時に,次太夫が執務する代官所の陣屋が,同所(小杉陣屋町)に設置されたという.次太夫は,代官就任のときに江戸麹町の飯田町に屋敷を拝領したと伝えられるが(「稲毛川崎二ヶ領用水事績」),用水開削前後のほとんどの時期,次太夫はこの陣屋か,小杉近辺に在ったであろう彼の屋敷に本拠を構えて活動したものと思われる.いまも,当地に次太夫の陣屋跡と伝えられる場所が知られている.

 同14年は,用水本流工事竣工の記念すべき年である.正月5日から4月5日まで山伏小野氏宅に滞在した次太夫は,岩戸村境から和泉村川原境の工事を完了し,六郷用水側の本流工事のすべてを竣工させた.ついで同6日から7月5日までかけて,稲毛領側の本流工事も終了し,ここにめでたく六郷用水及び稲毛・川崎二ヶ領用水の普請が成就したのである.この年の8月に,六郷領の不入斗村から逐次各村の検地を行い,年内に六郷領すべての縄入れが完了した.

 同15年には,正月16日に六郷領道塚村名主三右衛門宅に出張して,本流から各村の田地へ分水する小堀を見立て,2月20日までかけてその工事を督し,同21日から12月20日までの間は川崎,稲毛両領内の各村の小堀工事に当たった.

 同16年は,六郷領内の残りの分水小堀の開削を,正月23日から2月2日までの間に終了し,2月28日には六郷領内大用水堀通りの浚普請も終わって,ここに文字どおり六郷用水開掘工事の全工程が竣工をみたのである.ちなみに,稲毛川崎二ヶ領用水も,この年の3月1日に竣工した.工期実に15ヵ年,世田ヶ谷領500町歩,六郷領1,000町歩,稲毛・川崎二ヵ領1,876町歩に及ぶ田地に灌漑を施す大用水が,ここに現出した.ときに次太夫は74歳の高齢に達していたのである.

 「寛政重修諸家譜」は,この大事業を完遂した次太夫の功労に対し,家康は褒美として実盛の刀を与え,本領750石余のほかに,彼が開発した旧田新田のうちにおいて,1/10に当たる面積の給地を与えたと伝えるが,その実否はさだかでない.功なり,名とげた次太夫は,慶長17年(1612)の春,代官職及び知行地すべてを嫡子久弥助吉明に譲り,小杉の陣屋をあとにして神奈川に隠居したという(妙遠寺文書「蓮住房日純筆記・写」).この隠居地については,神奈川とするのは誤りで,川崎の砂子の里とすべきであるとする異説(山田蔵太郎著「川崎誌考」)もあるが,明らかでない.ただ砂子の里は,のちに妙泉寺を小杉から引寺し,妙遠寺と寺号を改めて次太夫が菩提寺とした寺の所在地であるところから,この異説の根拠となったものと思われるが,むしろ「日純筆記」に記されているとおり,このときは川崎ではなく,神奈川の何処かに隠居したと考えたほうが素直なのではないだろうか.

 上掲の「日純筆記」によると,次太夫が隠居した後,代官職を襲任した吉明は,房州保田妙本寺の日珍に対して,小杉の妙泉寺に専任の住持を派遣するように懇請した.そこで日珍は蓮住房日純に妙泉寺住持となることを命じた.日純は,「無智短才に而罷成間鋪由種々詫事申上候得共再三被仰付侯故不及是非」という次第で,この懇請を受け,慶長17年(1612)11月28日に妙泉寺へ着任したという.現在も小杉の妙泉寺跡にある日純の墓碑は,その事実を物語る貴重な資料といえよう.日純を急ぎ妙泉寺に迎えた理由は,この年の12月1日に,家康が小杉御殿に鷹狩りのためお成りになるという通達が,奉行所からあったことによる.その折,大御所家康に「御機嫌能様御祈精誠可申上」ことが日純の役目であった.やがてその当日,家康は小杉御殿にお成り,ついで2代将軍秀忠もお成りになり,4日まで滞在した.吉明は接待の大役を務め,日純は祈の精誠を尽したので,御機嫌よく還御された.このことを,日純が誇らしげに書き残したのがこの筆記である.

 ところで吉明は,その後代官職にあること3年,元和元年(1615)5月の大坂夏の陣に参戦し,37歳の若さで病死するという不幸に見舞われた.「寛政重修諸家譜」によると,大坂の天満妙福寺に葬られたとするが,「先祖書では行年38歳,法号観行院琢念,荏原郡下袋村円龍寺に葬ると異説を伝える.

 摘子を戦禍で失った次太夫は,次男長兵衛吉清が,すでに紀州徳川頼宣に仕えて一家を成していたため,自ら再び代官職に復した.ときに78歳の老境に達していたが,元気であったに違いない.翌元和2年(1616)4月17日,次太夫が後半生をかけて仕えた家康が没した.彼は家康の死を深くいたみ,剃髪入道して宗可と号した(「先祖書」).年月は明らかでないが,おそらく次太夫が再び代官職についてから間もなく,小杉の妙泉寺が砂子の里に移されて妙遠寺と改称された.妙遠寺に写しが伝存する「御朱印御訴訟申上侯事」によると,次太夫は,移転改称した妙遠寺に対しても,前々と同じように「寺中門前寺納之田畠高拾石余境内竹木等迄無相違御付置被成候」と,外護の丹誠を加えていることがわかる.前述のように,妙遠寺は,妙泉寺を引寺して改称した寺院であると同寺の寺伝は伝えているが,同寺文書に,妙泉寺は応永年中の建立(「妙泉寺遺所之事」),妙遠寺は文明年中の建立(「御朱印御訴訟申上候事)と草創年代に相違がみられる.あるいは2ヵ寺が併合されたものではなかろうか.また,上述のように,日純の墓が小杉の妙泉寺跡に現存するのも不思議である.引寺され,妙遠寺となったときの住持は,やはり日純であるから,日純は砂子の里の妙遠寺で遷化したと考えるべきであろう.それがいまも妙泉寺跡に墓があるという事実は,どうも納得しがたい.あるいは,引寺後も小杉には庵室らしきものが残され,着任の地ということで,その境内に日純の墓が設けられたとでも解釈すべきなのか,更究を要する問題点である.

 次太夫は,妙遠寺を自身の菩提寺と定めて,ここに元和5年(1619)10月に自分と妻の逆修供養のため,2基の五輪塔を造立した,生前に自身の没後の供養をすることを逆修という.おそらく,この五輪塔に没後次太夫夫妻は葬られたに違いない.この年,次太夫は稲毛・川崎の代官職を辞した.ときに82歳の高齢に達していた.翌6年,代官職の跡職は,次太夫の養子勘九郎吉勝に譲られた.「寛政重修諸家譜」によると,吉勝は三河国の産で,本姓を藤原氏とする新美清兵衛(善七ともいう)重勝の実子であったという.父重勝は,鳥居彦右衛門元忠の家臣であったが,その子吉勝は,次太夫の妻の姪という縁故で,若年時代から次太夫のもとに寄食し,代官の職務を補佐していた実務者であった.

 元和9年(1623)12月8日,85歳の長寿をもって次太夫が没すると,その釆邑のうち武蔵国豊嶋,荏原の両郡において440石余が吉勝に与えられ,残る荏原郡下袋村ほかの300石余は吉明の子吉辰に分与された.上述のとおり,次太夫は,砂子の里の妙遠寺に葬られたと考えられるが,最近郷里の小泉郷の久遠寺にも彼の墓があることが報告されている(石川龍胆会「会報」12号).この墓には,正面に「宗可日久居士・妙周信女」,左側面に「元和九癸亥歳十二月八日・当処御代官治太輔小泉氏吉次」,右側面に「寛永八年辛末祀五月四日」と刻されていることから,次太夫夫妻の供養墓であることがわかる.おそらく郷里の縁者が,小泉郷出身の次太夫の高徳を慕って,のちに建立したのであろう.注目すべきは,この墓に「当処御代官」と刻銘があることである.つまり,次太夫は小泉郷在住時代にすでに代官職をこの地で経験していたと考えてよかろう.家康は次太夫という適材を多摩川という適所に用いて,新田開発という大きな実を挙げたのである.ちなみに,次太夫の法号は順正院宗可日久居士という.



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2.1 小泉次太夫と六郷用水