1.6 戦後の水道
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1.6.2 多摩川の異常渇水と対策

 戦前,戦後を通じて,東京の水道需要は,常に増加を続け,各種拡張事業の推進によってこれに対応してきたが,施設能力が需要に及ばず,戦後はこの傾向がさらに増大し,東京の巨大都市化とともに,水道需要はとどまることを知らず,激しい上昇カーブをたどった.

 1953年度(昭和28)を基準にすると,1962年(昭和37)までの10年間に,人口は31%(区部659万人が865万人),1日平均配水量は64%(152万m3が249万m3)も増加した.

 また,1962年(昭和37)の給水能力1日185万m3に対して,夏季最大配水量は,1日292万m3と,約60%近いオーバーワークを強いられており,1964年(昭和39)4月現在,約2万栓の給水不良と,周辺区部に,推定100万人の未給水人口があり,給水状況は必ずしも安定しているとはいい難かった.

(1)1961年(昭和36)〜1962年(昭和37)の制限給水

 このような状況下で,1961年(昭和36)以来の渇水気象により,特に多摩川系(貯水池系)の給水区域には,長期間の制限給水を行わざるを得なかった.

 1961年(昭和36)は全国的に降雨量が少なく,特に関東地方は,過去22年間の平均降雨量を大幅に下回り,東京の9月降雨量は37mmで,平年の約1/6,気象庁初まって以来の最低を記録した.

 一万,小河内貯水池は,1959年(昭和34)6月の満水(1億8,540万m3)以来,異常気象とあいまって,需要の増大による過大放流のため,減小の一途をたどり,10月初めには満水量の約1/3の5,200万m3となり,このまま給水を続けると,1962年(昭和37)1月には貯水量0,多摩川系の浄水場は,自然流量だけに頼らざるを得ないという最悪の状態が予想されたため,1961年(昭和36)10月20日から,貯水池系17区の54.5万世帯に対して,節減目標20%の第1次制限給水(制限時間22時〜5時)を実施した.

 1962年(昭和37)に入っても,この状態は好転せず,4月16日には第2次制限(節減目標30%)に強化し,制限給水の影響は全都的な規模に及ぶことになったため,同年5月1日「臨時東京都渇水対策本部」が設置され,都をあげての対策に当たった.

 5月7日には,制限はさらに強化されて,昼間制限を含む第3次制限給水(節減目標35%)が実施された.

 この制限給水が大幅に緩和(第1次制限)されたのは,大量降雨により,小河内の貯水量が1億2,000万m3に回復した9月になってからで,この間,相模川の緊急分水(1日10万m3),原水補給施設の活用,他系統からの応援給水,渇水対策工事の推進,漏水防止作業の強化,節水PRの展開等の応急対策を横じた.

(2)1964年(昭和39)の制限給水

 1962年(昭和37)秋には,期待した降雨に恵まれず,小河内貯水池は.減少傾向をたどり,11月21日から再び第2次制限給水(節減目標25%)に入り,1663年(昭和38)は,年間を通してほぼこの状態が続いた.以後1964年(昭和39)7月までの間,制限の強化と緩和を繰り返したが,6月には,中川,江戸川系緊急拡張事業による,1日40万m3の通水開始もあり,1年半ぶりに制限は,第1次制限(節減目標15%)に復した.

 しかし,この年の梅雨期に期待した多摩川水源地の降雨量は,意外に少なく,5,6,7月の雨量(261mm)は,平年(524mm)の約50%にすぎなかった.

 このため,7月8日には貯水量は2,000万m3をわり,7月9日から第2次制限給水(節減目標25%)に入り,さらに7月18日,貯水量は,1,500万m3をわるに至った.都は7月17日再び「臨時東京都渇水対策本部」を設置,この非常事態に対処することとしたが,7月21日からは第3次制限給水(節減目標35%,制限時間23時〜5時,11時〜16時)を実施,さらに事態の悪化とともに,8月6日からは第4次制限給水(節減目標45%,制限時間22時〜5時,10時〜17時)を実施した.このときの貯水量は約700万m3で,満水時の3.2%にすぎなかった.(写真4.3.22 小河内貯水池渇水状況

 この制限は,貯水池系の60万世帯に対して,昼間午前10時から午後5時までと,夜間午後10時から午前6時までの給水を制限することで,都民生活に大きな影響を及ぼすことになった.この後8月15日には,さらに第4次制限強化(節減目標50%,昼間断水を伴う強い制限給水)を実施,東京の水道は,まさに創設以来最悪の状態を迎えた.

 一方,貯水量は8月20日には,346万5,000m3(満水時の1.6%)と最低を記録した.

 このような貯水池系の原水不足に加えて,多摩川下流も流量が極度に減少し,下流系の玉川,砧上,砧下,狛江の各浄水場給水区域と,神奈川からの分水を水源とする長沢浄水場系給水区域(新宿,大田,品川,目黒,世田谷,杉並,中野の各区37万6,000世帯)に対して,8月4日から1日5〜10時間の緊急給水措置がとられ,この状態は8月20日の集中豪雨による多摩川流況の好転まで続けられた.

(3)渇水対策

 東京の渇水は,その年10月の東京オリンピック開会を前にして,国政段階でも問題になり,当時の河野一郎国務大臣が主宰して,7月22日「東京都水不足緊急対策会議」が開かれ,当時実施中だった第1次利根川系水道拡張事業の通水を早めることを最良の方策として,1965年(昭和40)3月に予定されていた利根川導水に先立って,10月予定の荒川以降の施設を繰り上げ施工して,暫定的に8月25日に完成させることとした.

 こうして1日最大40万m3の原水が,東村山浄水場へ導水されることになった.

 一方,水道事業の主務官庁である厚生省でも「東京都水道対策連絡会議」を招集,関係省庁,東京,埼玉,千葉,神奈川各都県の間で,次の事項が決定された.

@ 東京都ならびに水資源開発公団は,荒川取水工事をさらに繰り上げて,遅くとも8月末までに取水できるようにする.

A 利根川から荒川への通水工事が完成するまでの緊急措置として,埼玉県の協力を得て荒川の水を取水する.

 以下8項目にわたるが,こうして8月25日の荒川通水が決定した.

 最大危機に直面した都水道のピンチを回避するため,当面の対策として計画・実施された対策は,次のとおりである.

@ 荒川取水の早期通水と原水の定量確保.

A 相模川分水の措置 神奈川県,川崎市,東京都の間で締結されている1日30万m3の原水分譲は,県内の水源事情から削減(8月1日から10%減)されていたが,これを回復するとともに,荒川通水まで最大1日33万m3に増量された.

B 応急給水対策 都は8月6日,第4次制限に入ると,防衛庁に「災害出動」による応援給水を要請,同月7日,陸上自衛隊東部方面隊は,管内の給水部隊を都心部に出動させた.また,警視庁,在日米軍統合司令部も,8月11日から給水応援に出動,8月14日からは全都庁の組織をあげての応急給水が実施された.(写真4.3.23 自衛隊による応急給水

  8月24日までの延べ出動車両数3,777台,応急給水量は16,592m3であった.

C 北多摩地区市町よりの応援給水 隣接する北多摩地区市町から,市民の節水によって生み出した水の応援を受け,8月14日から31日までの間,5市3町(立川,府中,小金井,三鷹,武蔵野市,国立,国分寺,狛江町)から総量10万5,499m3を受水した.

D 人口降雨実験 都の要請により,政府は8月13日から約1カ月間,陸海自衛隊航空機を使用して,人口降雨実験を行った.

E その他,@埼玉県,千葉県の協力を得て,中川,江戸川より設備能力限度までの増加取水 A玉川上水分水量の制限,B金町系から貯水池系給水区域への補給,C漏水防止作業の強化と,漏水発見,修理の迅速化,D大口使用者の節水協力要請と節水パトロールの実施,E応急給水車注水施設(豊住,稲付第二,晴海)の設置,等を実施した.

(4) 水源地への集中豪雨と制限の緩和

 8月20日,熱帯性低気圧のもたらした豪雨は,水源地82.1mm,東京78.6mmの降雨量があり,連日減少し続けていた小河内,村山,山口3貯水池は,5月13日以来100日ぶりに増量に転じた.

 また,多摩川下流の玉川浄水場も,この降雨によって取水量を回復し(1日6万m3→12〜13万m3),1日5時間給水を余儀なくされていた城南5区に対して,21日から10時間給水に制限を緩和するとともに,8月25日の荒川通水により,貯水量回復の見通しが得られたので,制限給水は8月25日,第三次制減(35%節減)に緩和された.

 8月25日午前8時45分,埼玉県浦和市地先の秋ガ瀬取水堰から荒川の水が導水路(朝霞水路)に入り,朝霞浄水場原水連絡ポンプで,16.6km先の東村山浄水場に送られ,同日貯水池系の制限給水は,第四次強化から第三次制限へ緩和された.(写真4.3.24 秋ガ瀬取水堰

 その後は降雨の影響もあり,貯水量は順調に回復し続け,9月9日,3,080万m3(満水時の14.5%)になったので,9月14日には第2次制限(25%節減)に緩和され,さらに9月29日,貯水量が4,900万m3(満水時の22.4%)に達したので,10月1日から第一次制限(15%節減)に復した.

 以上のように東京の水道は,江戸,徳川期から,多摩川と深いかかわりをもって今日に至っている.

 玉川上水から創設(改良)水道,第一,第二水道拡張まで,水源はすべて多摩川に仰ぎ,江戸,東京市(都)民の生活用水は,多摩川と切り離しては考えられなかった.

 しかし,太平洋戦争後,昭和30年代以降の経済の高度成長期に入ると,多摩川流域の都市化が進み,同時に水質の悪化はなはなだしく,特に中・下流部の水質汚染は急速に進行し,上水道水源としては,まことに憂慮すべき状態になった.

 また,水量的には,昭和30年代まで,東京都水道の約80%を占めていた多摩川は,30年代後半の利根川系水道拡張事業の進展により,この主力を利根川に譲り,いまや水源比率は,約20%までに低下している.

 水質と水量と,ともに東京の水道に占める位置は低下したが,なお多摩川は,東京都民にとってかけがえのない水道水源であり,上流部の自然環境と合わせて都民の母なる川であることに変わりはない.(図4.3.9 創設以来の給水施設と配水量の推移



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