2.1 水源林経営の沿革
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2.1 水源林経営の沿革

2.1.1 経営着手前の水源林

 多摩川が,都市の水道水源として利用されるようになったのは,1654年(承応3)玉川上水が開削され市中給水が始められてからのことである.

 江戸時代,多摩川上流の水源地一帯は,幕府の直轄地(天領)であり,「お留め山*4」といわれ,伐採を制限,禁止し,焼畑,開墾等を厳しく禁じ,森林は手厚く保護されていた.しかし,地域住民に対しては,「小物成*5」という入山税を徴して入会権を認め,生業のため不可欠な草木や生活用材の採取を認めていた.ただ,この入会には村落ごとに厳しい申合わせ規約*6を定め自己監視体制を設けていたため,盗伐等の不正行為が未然に防止されており,森林は自己所有林同様に保護され,美林を形成していた.

 明治時代になると政府は,廃藩置県に伴って地籍整理を行い,1881年(明治14)「山林原野官民区分*7」を行い,幕府時代の直轄地の山林,原野,小物成地を官有地に編入し,1889年(明治22)これを御料地とした.

 維新前,小物成税を負担した地域住民によって,あたかも自己所有林のように手厚い保護を受けてきた森林は,強制的な*8官有地編入の後,当局者による管理保全が行われないばかりか,ことごとに規制を加えられたため,入会慣行を無視された地域住民の森林保護の念はだんだんと薄らぐばかりか,乱伐,盗伐,ときには放火までが行われ,山はハゲて,水害もたびたび起こるようになった.こうしたなかで,1883年(明治16)には「官有山林草木払下条規」が定められ,森林利用の道を開いたが実質的な効果はなく,地域住民の気持ちは元に戻ることなく入会権の改善問題をはらみながら御料地となった.

 問題を重視した御料局では,従来慣行を尊重して「御料地草木払下規則*9」を定めて入会権の回復を図ったが,時すでに遅く,水源地の森林は荒廃が続いた.

 1893年(明治26)神奈川県の多摩3郡が東京府に編入されたいきさつは,後に述べるように,主たる動機としては,江戸時代からの旧式水道改良の機運のなかで,その水源である玉川上水沿岸諸地域の確保のため行われたものであるが,背景には水道水源林の荒廃の認識が高まり,これが深く憂慮されていたためでもあった.

 このように,森林の荒廃は年ごとに著しくなる傾向にあったので,1900年(明治33)東京府知事千家尊福は,東京帝国大学林学博士本多静六*10に,多摩川水源地の森林調査を依頼した.数回の調査の後報告書がまとめられ,水源地の状況は放任できない危機的状況にあるので,水源林経営を怠れば,東京市の用水量は欠乏し,東京府下の灌漑用水に不足を生じるだけでなく,土砂流出,洪水等で国土保全にも重大な影響があり,この際利害関係の最も緊密な東京府または東京市が水源林を直轄管理することが急務である,という答申がなされた.

 答申を受けた府知事は,早速,東京市長松田秀雄に対し,東京市が水源林と最も密接な関係があるから直接これを経営してはどうかと打診したが,市長の受け入れるところにはならなかった.

 当時,多摩川上流水源地の最奥部を占める御料地の状況は,神金村地区の萩原山*11御料地約5,600町歩は,盗伐,開墾等で年々荒廃化が進んでおり,また丹波山村,小菅村の御料地も広範囲に伐採され,焼畑,桑畑等の乱伐開墾によって荒廃地は増大傾向にあった.また,同じころ,東京市会議員宮川鉄次郎は日原川上流の森林荒廃を訴え,市長に警告している.

 水源林の荒廃を憂えた府知事は,翌1901年(明治34)所管区域内である日原川流域一帯の民有林を保安林に指定するとともに,御料局に対しては多摩川上流の御料地約14,750町歩の無立木地に,造林その他の森林保全事業を実施してくれるよう強く要望した.御料局では財源等の理由から,御料局が直接多摩川水源地に造林事業を実施することは困難であるが,水源林の荒廃は看過できないものであるから,萩原山地区を除いた御料地を東京府に譲渡し,東京府がこれを管理したらどうか,との回答を得た.東京府は,このため格安の価格*12で御料林の一部を取得することができ,同年氷川村(現奥多摩町)に東京府林業事務所を開設するとともに,丹波山村,小菅村に森林監視駐在所を設けて森林の巡視保護と造林に当たることとなった.

 1903年(明治36)新東京市長尾崎行雄は,東京市が自身で水源林経営を行う必要性を痛感して,前々年東京府が譲渡を受けることができなかった萩原山地区の御料林を保安林に編入してくれるよう御料局に働きかけを行う一方,経営着手を前提として,1906年(明治39)農商務省山林局に対し,多摩川上流水源地の森林状況とその経営方法に関する調査を委嘱した.

 山林局技師村田重治,松波秀実らは,1908年(明治41)「東京市水道水源多摩川流域森林調査第一報告書」を市長に提出し,森林荒廃の実状を明らかにした.

 翌1909年(明治42)尾崎市長は,市会に実情を報告するとともに,その賛同を得て水源林経営について調査を行うため「臨時水源経営調査委員会」を設置した.この委員会は,市参事会員,市会議員のほか,顧問として,帝室林野管理局(旧御料局),農商務省山林局,東京府,山梨県の専門家,東京帝大の本多博士らで構成されている.

 市長は,調査委員とともに水源地を視察し,水源林経営開始の先頭に立った.このときの水源踏査及び水源林経営に対する姿勢と事績を記念して,1963年(昭和38)丹波山村水源林内に「尾崎行雄水源踏査記念碑」が建立された.

 1909年(明治42)臨時水源調査委員会は,林業先進地奈良県の吉野山林との比較調査なども検討の後,報告書をまとめた.

 この内容は,次のように東京市が主体となって行う水源林経営の基本方針であった.

 @ 御料林及び府有林は市目らが経営し,公私有地は適宜の方法により造林の実行を期す.

 A 前項の経営を実行するために,特別の機関を水源地方におく.

 B 水源林経営に関する収支はすべて特別会計とし,収支均衡に至るまで毎年8万円を限度として水道準備積立金から支出する.

 また,事業経営方法の概要として,次の方針が述べられている.

 @ 御料林の一部(西多摩郡に散在するもの)及び東京府有林の全部を相当代価をもって市に譲り受けること.公有地の一部ならびに山梨県に属する水源地全部の御料林は,部分林設定を行うこと.

 A 経営すべき土地面積は18,750町歩とする.

       内訳,西多摩御料林      650町歩

       萩原山部分林設定見込御料林 5,600町歩

       東京府有林         8,500町歩

       公私有地          4,000町歩

 B 植栽は,30カ年に終了する見込みで,杉,絵,唐松の3種を主とし,場合に応じて他の樹種を加えること.

 この方針に基づいて提案された水道水源地経営案は,1910年(明治43)市会の議決を受けたので,尾崎市長は,東京府知事阿部浩に府有林の譲渡を申請し,一方帝室林野管理局には御料林の譲渡願,萩原山地区の部分林設定願を提出した.

 同年10月,東京市は,水源林事務所を開設し,ここに初めて今日につながる本格的な水源林経営が開始されたのである.


*4 鷹巣山などが明らかにこれにあたる.

*5 山税ともいう.明治41年の「東京市水道水源多摩川流域森林調査第一報告書」p.52には,萩原山の入会の山税(札)について,「山札を所持する者は1か年間下草小柴の採収権を有し其料金として荷車を使用する者は一台に付70銭,馬を使用する者は一駄に付50銭,人夫は一員に付30銭づつを徴すという」とある.

*6 「入会地は,ムラとしての財産であるから,その使用には個々人に勝手な行為を許さず,利用のための規則が不文律として,また後には成文となって存在していた」千葉徳爾,昭和48年学生社「はげ山の文化」p.160

*7 数多く異種の通達が行われたことによるものか,官民区分は県によって取扱いがかなり異なった.官有地編入が最も激しかった例は山梨県で「地元村民から山林保守の意志を喪失させた」戒能通孝,昭和24岩波新書「小繋事件」p.26

 「この山林原野官民有区分によって江戸時代の(本村の)入会地のうち民有地となったのは1%であり,残りの99%は官有地となった」丹波山村,昭和56年,「丹波山村誌」p.68

*8 「政府は,非常に厳しい民有地認定基準を作り,村有地であっても農民が所有していたことを立証できない林野はすべて官有地に編入した」大島美津子1977年教育社歴史新書「明治のむら」p.62

*9 山梨県告示第83号告示で,従来の官有地の入会を永世の権利として認めた.同第1条に「山梨県下御料地の内に於て,明治16年中,同県甲2号布達により,草木の払下げを受けたる人民−は,本則第2条以下の規程により,永世毎年,その草木を払下ぐべし」とある.前述「丹波山村誌」p.65,69

*10 「赤松亡国論」で有名.

*11 萩原山という山は特にない.

*12 前述「水道問題と三多摩編入」p.192,193,194



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