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全国で初めての公営工業用水道が川崎市で布設され,多摩川の流れと地下水に水源を求めて,一部通水をしたのは1937年(昭和12)7月11日だった(参19).これから1週間後に日華事変が起きた.この戦争による軍需景気は,工場の生産に拍車をかけ,日本鋼管を筆頭に,鉄鋼業つまり用水型産業が増加することが予想された.人口も急増し,会社,工場で使用する水は,工業用水道水だけでなく上水道水も増加する傾向にあった.これに対処するため,水源を多摩川の表流水に求める第1回目の拡張工事が計画された(参20).しかし,当初予定していた下沼部付近が川床しゅんせつのため,水質が悪化,塩分の含有量も多くなった.そこで組合管理から市に移管された稲毛・川崎二ケ領用水に水源を求めることになった.市では用水路の改修を行い余剰水を生み出した.
この間にも軍需景気の波に乗った各工場は,施設の拡張に見合う工業用水道水の給水申込みをしてきた.この拡張工事の計画は,1日81,000m3の能力増をし,創設時と合わせて161,000m3となるもので,1941年(昭和16)9月から工事を始めた.そのうえ,わが国が同年12月8日,太平洋戦争に突入したため,各工場はさらに生産能力を高め工業用水道水の需要も急激に増大した.戦局が展開していくうち,拡張工事に要する資材,労力の不足,物価の高騰,輸送力の低下などの悪条件が重なってきた.そのうちに状況が悪化1945年(昭和20)には敵の空襲が激しさを増し,市内中心部も焦土となりついに敗戦を迎えた.工業用水道水の需要は見通しがつかなくなり,拡張工事も中止のやむなきに至った.多摩川の伏流水に水源を求めようとしていた上水道水についても同じような状態だった.
戦後の混乱期を過ぎた1950年(昭和25)6月には,朝鮮半島で戦火が起きた.特需景気が日本列島をおそい京浜工業地帯には活気がみなぎってきた.各社とも生産量の上昇を見込んで工業用水道水の新規申込みが相次いだ.川崎市は新たな水源を相模川に求めた.これは,神奈川県営相模川河水統制事業の一環としてであった.工業用水道の拡張工事は上水道の工事と一緒に施行することになった.