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それでは江戸時代には,砂利はどこで採取されていたのか.第1節の冒頭に記した蜀山人の見聞にみられるように,多摩川の下流でも江戸時代において,砂利が採取されていた.しかし多摩川での採取の規模や,その砂利がどこで消費されたかは不明である.ただ『調布市百年史』によれば,明治初期には調布辺りの多摩川の河原に集落ごとの共有地があり,その鉱区は共有であった(参4).採取した砂利は道路に敷く程度で,若者が手で運んだという.道普請だったのであろうか.江戸時代もこれに似た状況であったと推察される.当時多摩川の砂利は,江戸では消費されなかったと考えてよいであろう.
一方江戸においても,江戸市中や当時の郊外にあたるところでも,砂利は採取されたようで,当時そこは砂利場などと呼ばれていた.砂利場は幾つかあったようで,田町一丁目の砂利場のものは,前述の江戸城天守台の増築の際用いられたといわれる.また浅草の三谷(現清川)から日本堤に向かう途中にもあり,現在の豊島区高田の神田川沿いも砂利の採取場で,砂利場と呼ばれたという.この他目黒川の支流蛇崩川が目黒川に合流する辺りでも採取されたようで(参5),世田谷区下馬には蛇崩川に架かる橋で,砂利場橋というのがある.これらの地域では,砂利は明治末期まで採取されたといわれる.
江戸時代の砂利の価格もはっきりしないが,蜀山人は多摩川で砂利を採取していた男に値を聞き,男は1日に採取する1坪の砂利の値段を,1貫200文と答えている.日本砂利協同組合連合会の専務理事であった岡本邦男は,これを他の商品と比較して,この値は酒6升(約10.8l)に相当したのではないかと推定している.
いずれにしても,江戸時代の砂利需要は,それほど多い量ではなかったであろうし,その移動距離も短いものであったと考えてよいであろう.多摩川の砂利が江戸へ運ばれたことは,おそらくなかったのではないかと考えられる.