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近代的な都市づくりや建造物の洋風化に,関東大震災後の復旧工事も加わって京浜地方を中心に砂利需要が大幅に増加するなかで,特にコンクリートの使用量が増加し,その結果洗砂利の需要は増大の一途をたどった.その需要増にこたえ,経済的にも効率のある採取を行うため,機械化の要請は関東大震災後とみに高まった.その後関東地方の諸河川では,機械導入が急速に進展した.砂利採取の機械は,@砂利採取機,Aふるい分装置,B砂利採取船に分けられる.
@の砂利採取機として普遍的なものは,スチーム・ショベルとドラッグ・ラインと呼ばれる採削機であった.これは無限軌道(キャタピラ)の上に載る,スチーム・ショベルあるいはドラッグ・ラインから伸びるショベルで砂利をつかみあげるもので,砂利は固定された砂利ふるい分機にかけられ,その下を通過する砂利運搬車に積み込まれるようになっていた.スチーム・ショベルもドラッグ・ラインも機能的には同一であり,構造上スチーム・ショベルは機械の位置より高く堆積している砂利を採取しやすく,ドラッグ・ラインは脚の位置より下にある砂利を採るのに適していた.大正末期のドラッグ・ラインは,30馬力で1時間に約3tの切込砂利を採取できたという.
Aのふるい分装置は,動力によってふるいを動かすもので,平面式のものと同筒式のものとがあった.平面式のものは緩傾斜のふるいを前後に動かして砂利をふるい分けるもので,円筒式のものは「トロンメル」と呼ばれる円筒式のふるいを,8°〜10°の傾斜で回転させてふるい分ける方法である.このトロンメルには常に水が注がれ,砂利はふるい分けられながら洗浄される.
B砂利採取船は砂利の採掘とふるい分け,洗浄を同時に行うことのできるもので,多摩川でも大震災後かなり普及した.大量採取が可能であったため急速に普及したが,反面このことが多摩川における砂利採取の寿命を縮めたともいえよぅ.砂利採取船は1921年(大正10)ごろから研究され始めたようで,和歌山県の紀ノ川に「田村式」,「津田式」が入ったのが始まりとされている.関東では1924年に相模川で稼動したのが最初といわれ,多摩川には1925年ごろ下河原線(鉄道省直営)と多摩川側線(浅野セメント)に入ったといわれる(参22).初期のものは15馬力の石油発動機を備え,鉄筋コンクリート用砂利を1日に平均150t,大型のものは約200t採取できたという.砂利採取船は各地で作られたようで,昭和初期には主要なもので考案者8人,9種類を数えている.大量生産が可能で移動させることもでき,冬季でも洗砂利を採取できるなど優れた面を多く備えていたが,建造費が高く,狭い鉱区では不適であり,少量生産では採算に合わないこともあって,大手企業や直営事業場には導入されたが,小零細企業では普及しにくかった.