1.1 遺跡のあり方
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第6編 社会生活史

第1章 原始・古代

第1節 先工器時代の多摩川

1.1 遺跡のあり方

 昭和24年,群馬県岩宿における関東ローム層中より縄文土器文化に先行する石器文化の存在が確認されて以来,その調査・研究は,関東地方を中心に全国に波及していった.従来,わが国の文化の上限は,縄文土器を用いた時代,換言すればいわゆる新石器時代であることが定説とされていたわけであるから,新たに関東ローム層中より見出された石器をもち土器を伴わぬ文化は,旧石器時代の文化であろう,という画期的な発見として,学界をはじめ広く日本史に関心を持つ人々の注目を受けるに至ったのは当然のことであった. 関東ローム層についての考古学者の関心は,それの堆積が日本における人類の出現に先立つものであり,無遺物層として扱われてきたことに象徴的に示されていた.しかし,岩宿遺跡の成果は,考古学界の常識を打破したものであり,ために急激に関心の的となっていったのである.

 この,世紀の発見,と評される岩宿遺跡における知見より以前に,多摩川の流域において同様な事実に気付いていた人がいた.それは,国分寺市に居住され,国分寺の住職としても知られる星野亮勝氏であった.氏は一,二の考古学者にその事実について話題を提供したが,岩宿以前のこととて,さして問題視されず,その確証は岩宿以後になったのである.星野氏が関東ローム層中より石器を発見されたのは,多摩川左側に注ぐ野川の流域であった.後に熊ノ郷遺跡として学界に登場した遺跡がそれである.

 この熊ノ郷遺跡は,岩宿に続いて昭和26年に調査された茂呂遺跡(東京都板橋区)と並んで,初期における日本旧石器時代の研究に大きな役割を果たしたものであったが,その後,野川流域において相次いで関東ローム層中の遺跡の発掘が行われ,極めて重要な成果が提出されるまで久しく関心が向けられることがなかった.

 昭和44年以降,野川の流域において実施された先土器時代遺跡の発掘は,忘れられつつあった熊ノ郷遺跡などの存在を再び学界に登場させることになったのである.

 さて,多摩川の左岸における先土器時代の遺跡は,野川の流域に集中的に認められている.そのすべてが関東ローム層中に含まれているが,関東ローム層は,古いほうより,多摩ローム・下末吉ローム・武蔵野ローム・立川ロームと4区分されており,それぞれ多摩川の河岸段丘の変遷に対応している.現在のところ,先土器時代の遺跡が存在する層は,立川ローム層のみであり,それはV〜層に細分されて理解されている.

 野川流域において発掘調査された遺跡としては,谷奥より左岸に多摩蘭坂(国分寺市)・府中病院(府中市)・熊ノ郷(同)・殿ケ谷戸(同)・はけうえ(小金井市)・平代坂(同)・西之台(同)・新橋(同)・中山谷(同),右岸の中流に前原(小金井市)・武蔵野公園(府中市)・野川(調布市)などが存在する.これらの遺跡は,台地の端部に立地していることが1つの特徴であり,往時における居住地域の限定性を示している.また,仙川の流れる支谷にもこの時代の遺跡が認められ,右岸に存在する仙川遺跡(調布市)はその顕著な例として知られている.

 一方,右岸において先土器時代の遺跡として確認されているものは,子母口遺跡(川崎市高津区)における例の外,末長(同)・梶ケ谷遺跡(同)などが知られているに過ぎない.

 このように多摩川流域における先土器時代の遺跡は,左岸上流の,それも野川の支谷に認められているが,発掘によって把握された遺構については必ずしも顕著な遺例が検出されていない.一般に礫群と呼ばれている河原石を一定範囲に集中的に配し,その周囲より石器が出土する道例が指摘されているに過ぎないのである.かかる礫群のあり方については,いくつかの見解もあるが,人類の居住と密接に関連していることは明らかであり,その性格についての究明が試みられつつある.

 それは,先土器時代の遺物一石器が出土する場合には,ある限られた空間に集中して見出される事実とともに生活の実態を物語る資料として注目されているのである.



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1.1 遺跡のあり方