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6世紀に入ると日本各地の高塚古墳は,横穴式石室構造の内部主体への導入によって,一地域に集中的にいわゆる家族墓としての性格を持って造営されるようになる.群集墳の出現である.
群集墳の形成は,その中に前代−5世紀代の古墳を含むものと,含まないものとがあり,さらに前者には前方後円墳を有するものとしからざるものとが認められる.
多摩川流域において,古墳の造営が普遍化するのは6世紀の後半より7世紀の後半にかけてであるが,その様相は,横穴墓の出現もあって一様ではない.
4〜5世紀代において多摩川流域に形成された古墳は,左岸の亀甲山・蓬莱山という2つの大規模前方後円墳,そして右岸の同じく観音松・白山前方後円墳を最古とし,次いでそれらの上流に左岸の野毛大塚古墳,そして砧中学校第7号および亀塚の2前方後円墳が営まれている.
6〜7世紀には,これら前代に顕著な古墳が築造された地域に円墳より構成される群集墳が形成されるようになった.
下流域においては,右岸に加瀬台古墳群(川崎市幸区加瀬)・日吉矢上古墳(横浜市港北区日吉),左岸に多摩川台古墳群・荏原古墳群(大田区田園調布)が現れ,さらに,横穴墓群の存在が顕著になってくる.本地域に新たに出現した横穴墓が地域的に濃密な分布をみせているのは,右岸の津田山横穴墓群(川崎市高津区津田山)と左岸の久ケ原台地横穴墓(大田区久ケ原・千鳥)そして等々力渓谷横穴墓(世田谷区等々力)である.
加瀬台古墳群は,白山古墳の前方部に接して営まれた第六天古墳,加瀬台の中腹縁傾斜面に造られた加瀬第3号墳,そして台上の加瀬第1・4号墳(了源寺古墳)(川崎市幸区北加瀬)などより形成されているもので,いずれも円墳である.これらの円墳群は,横穴式石室を有し,石室中に板石組合せ石棺をおき,その中に11個の頭蓋骨などを収めていた第六天古墳,同機造で木棺使用の加瀬第3号墳,また,加瀬第4号墳のごとき木棺直葬の古墳が知られている.横穴式石室は,前・後室より成り後室は胴張りを持つもので,特に第六天古墳よりは,石棺中より玉類181(勾玉2・切子玉2・棗玉6・白玉7・小玉165)・金銅製品19以上(金銅製鈴10・金銅製薄板片若干・鐶6・釧3)・刀剣類17・(刀子17),石棺外より刀剣類105(刀身12・鍔5・刀装具6・鉄鏃82)・鉄器4(?)・土器1(
)といった豊富な副葬品が検出されている.これら第六天古墳にみられる副葬品の多様さは,10人以上が追葬された合葬墳であることにその意味づけが果たされるが,盗掘された第3号墳と極めて対照的である.その年代については,7世紀の後半に位置させることができるであろう.それに対して,木棺直葬の加瀬第4号墳よりは,六獣鏡を含む銅鏡2・直刀1・鉄斧などを出土し,6世紀の前半以降,7世紀の初頭にかけて営まれるものと考えられる.同様なことは直刀1本出土の加瀬第1号墳についてもいえるであろう.
このような加瀬台古墳群と比べて日吉の矢上古墳は,それに先行するものであり,観音松・白山古墳に引き続き造営されたものとすることができよう.日吉矢上古墳は,観音松古墳をのせる台地と小支谷をはさんで北方に対峙しているもので,径20mの円墳である.内部主体は粘土床で,だ龍鏡2・玉類1,747(勾玉12・管玉24・棗玉8・丸玉393・小玉1,310)・鉄剣1・鉄鏃1・竹櫛1が検出されている.これによって 6世紀代の所産として把握することができる.
また,6世紀より7世紀にかけて築造された円墳が横穴墓群の存在地域に若干認められる.径33mの馬絹古墳(川崎市高津区馬絹)は,高さ6mを有し,横穴式石室を内部主体とする7世紀代の円墳であるが,その付近には,6世紀代と考えられている梶山古墳があり,さらに同時代の津田山古墳(川崎市高津区津田山)・下作延稲荷塚古墳(川崎市高津区下作延)が点在している.
総数50基を越えると考えられている津田山横穴墓群は,このような高塚古墳との地域的対応の中において6世紀の後半より営まれるようになり,7世紀に至って濃密な存在状態を示している.津田山横穴墓群と汎称されている横穴墓群は,その分布も広がりかなり大規模なものであると同時に,内部には棺座あるいは組合せ式石棺を設け,副葬品を多く伴う例もあり,本地域における中心的な横穴墓群である.9基以上より成る中野橋横穴墓の場合,玉類(勾玉・管玉・小玉)・武器類(直刀・鉄鏃)を有するものの存在が指摘されている.
さらに,加瀬台古墳群の付近における横穴墓として駒岡横穴墓(横浜市鶴見区駒岡町岩瀬)が存在する.この横穴墓の第1号墓よりは,玉類(勾玉・管玉・小玉)と銅釧に伴って,武器(直刀・鉄鏃)および馬具が出土しており,横穴墓築造集団の初期的性格を示している.
一万,左岸における群集墳は,多摩川台古墳群と荏原古墳群が前代の大規模前方後円墳の至近地に形成される.それらの中には,全長41mを有する観音塚古墳(大田区田園調布)のような前方後円墳が含まれ,その内部主体は横穴式石室で,副葬品として玉類(碧玉製管玉8・水晶製切子玉6・ガラス小玉3),武器類(道刀4・鍔3・刀子2・鉄鏃97),馬具類(轡雲珠・辻金具・
具)などを持ち,後円部の墳頂に埴輪が樹てられている.また,鈴鏡が副葬されていたものとして,六鈴鏡出土の第28号墳,七鈴鏡出土の第10号境(御嶽山古墳)が知られている.このような円墳の大部分は6世紀代のもので,7世紀に入って連続的に営まれて多摩川台古墳群に先行するものとして理解される.横穴墓の存在も顕著で7世紀以降,100基を単位として認められる.その大部分は,副葬品も少なく総じて貧相であるが,ただ塚越第14号墓(大田区南馬込)のみ孤高の性格を持っている,すなわち,金銅製の頭椎・圭頭の大刀を持ち,桂甲と武器類(直刀5・刀子4・鉄鏃117以上),馬具類(鉄地金銅張杏葉・鉄製轡)を副葬品として持つこの横穴墓の被葬者は,荏原台地に形成された横穴墓群の中でも初期的なものであり,その性格を示している.
このようにみてくると,下流域における古墳および横穴墓の様相は,その出現と性格が近似するものであったことがわかる.特に,従来,高塚古墳に対して相対的に低く評価されてきた横穴墓の中には,同時代の高塚古墳に優るとも劣ることのない副葬品を持つものがあり,横穴墓造営集団が本地域に定着した当初における被葬者の性格を示している.
かかる群集墳は,さらに多摩川を遡り左岸においては,喜多見・狛江古墳群が形成されるが,ともに5世紀代の前方後円墳が先駆墳として認められる.
喜多見古墳群は,既に触れたように4支群より構成されているものであるが,砧中学校第7号前方後円墳を例外として,砧中学校古墳群7基,慶元寺古墳群4基以上,殿山古墳群7基,大蔵古墳群2基以上の古墳は,すべて円墳であり,内部構造は切石使用の横穴式石室の構造を持つものとそれの不明のものがある.不明のものは調査を経ずして破壊されたものが多いが,これらの中には簡単な木棺直葬墳の存在を推測させるものがある.切石を積んで構築した横穴式石室が明らかにされているものとして砧中学校6号墳,殿山古墳1・2号墳,大蔵古墳群1号墳がある.砧6号墳は「擬似アーチ形の横穴式石室」,殿山1・2号墳はともに両袖形,大蔵1号墳は複室構造のものと一定していない.砧6号墳よりは,直刀・刀子・鉄鏃・金環・ガラス玉,土師器,須恵器が出土し,ともに見出された歯の検討より被葬者は6人と判定された.殿山1号墳は,半地下に主体部をおいて営まれたもので直刀3・刀子2・鉄環,鉄鏃31以上・針状鉄器・玉類(勾玉・切子玉・土玉・丸玉・小玉)・金環が出土したが,特に石室の天井部がドーム状を呈している特異なものであった.このような副葬品のあり方は追葬墳であることをよく物語っている.2号墳は調査時に既に破壊が進んでいたが,半地下に営まれたと推定され,直刀残片など若干の副葬品が険出されている.大蔵1号墳は,全長6.25mを有する複室構造の石室を持つものであるが副葬品類は既に失われていた.
このような切石使用の横穴式石室を主体部とする円墳を中心に形成された古墳群は,本地域においては,6世紀の後半より築造が開始され,7世紀の後半近くに至る約1世紀の間,家族墓としての性格を濃厚に示して営まれたものであった.
狛江古墳群は,和泉(28基)・猪方(15基)・岩戸(6基)の3支群より成っているもので,先駆墳の亀塚前方後円墳を例外として,確認されているものはすべて円墳である.その円墳は,30〜40mクラスのもの9基,20〜30mクラスのもの5基が含まれ,喜多見古墳群などと比較して極めて大型である.本地域にみられる群集墳を構成する円墳の規模が10数mのもので大型の部であることと比較してみると狛江古墳群の円墳の大型化現象が注目されるであろう.その内部主体は,絹山塚・松原東稲荷嫁の両墳が礫槨であったこと,さらに箱形石棺かと考えられる例があることなど特異なものであり,そこにも本古墳群の形成過程を知る1つの手掛かりが与えられている.これらの若干の様相よりうかがえることは本古墳群の築成時期が,2〜3の横穴式石室群の存在をも考慮に入れても5世紀の末より6世紀の前半ごろと考えられることになり,喜多見古墳群に先行する古墳群として位置づけることができる.
また,喜多見古墳群に接する地域には,谷戸(2基)・西谷戸(6基)・原(5〜6基)・堂ヶ谷戸(4基)などの横穴墓が群在して営まれている.いずれも副葬品は貧相であるが検出された例もある.例えば,谷戸1号墓より円頭太刀・刀子・鉄鏃が,西谷戸1号墓より刀子,2号墓より玉類(棗玉・丸玉・小玉)431点が出土している.これらの横穴墓の年代は,ほぼ7世紀より8世紀代にかけてのものであり,初期的造営の横穴墓の場合においては円墳群と並行しているようである.
一方,この地域の右岸における古墳のあり方は,極めて散発的かつ個別存在的であり,個々の構造・年代などについて知ることを得ない状態である.
次に,遡上して中流域の右岸の状況をみると,そこには古墳の築造が認められてくるが,多くそれは多摩川に直面せず,多摩川に合流する大栗川あるいは浅川・平井川の流域に存在している.大栗川が多摩川と合流する付近には稲荷塚(多摩市百章)・臼井塚(多摩市和田後原)の2円墳,4基以上の小円墳より成っている万蔵院台古墳群(日野市百草),その隣接地に存在する中和田横穴墓群(多摩市和田小字中和田)(1基以上)などがある.さらに,浅川流域には,径23mの周溝が検出された円墳など6基以上より構成される平山古墳群(日野市平山),その下流には径15mの周溝検出の円墳を含む豊田寺坂古墳群(日野市豊田),があり,また,多摩川中流域における大規模な横穴墓群として坂西(日野市大坂上)(7基以上)・梵天山(日野市川辺堀之内)(12基以上)・谷ノ上(同)(4基以上)などが存在している.多摩川に直面する古墳群としては,七ッ塚古墳群(日野市新町)(円墳5基以上)があり,さらに遡ると平井川の流域に瀬戸岡古墳群(秋川市瀬戸岡)(約30基)がみられる.左岸においては,狛江古墳群の上流に2基の小円墳を持った下布田古墳群(調布市下布田),その上流の武蔵国の国府に接して小円墳2基より成る白糸台古墳群(府中市白糸台),同じく2基以上の円墳が認められる高倉古墳群(府中市美好町)が認められ,下布田古墳群の北方には御塔沢横穴墓群(三鷹市大沢・調布市深大寺町),武蔵国分寺の近くには尼寺西横穴墓群(国分寺市西元町)が存在している.このような中流域において比較的群在する高塚及び横穴墓群と離れて,小規模な円境が洪積丘陵の端部近くに散発的に認められているが,その数はさして多くない.
稲荷塚古墳は,径約18m,高さ約4mの円墳で,内部主体は切石の横穴式石室である.その構造は複室構造を有し,後室(玄室)はいわゆる胴張り式のものである.このような胴張り石室は,稲荷塚古墳の西100mに位置している臼井嫁古墳にもみられるもので,多摩川流域においては,下流右岸の加瀬台3号墳・第六天古墳,中流域の北大谷古墳(八王子市大谷町)などに同構造例が認められる.さらに,北武蔵には約20基の円墳の主体部として類例が指摘されている.造営年代については,7世紀代とされ,その構築技術より渡来人集団の奥津城であろう,と説かれている.
右岸の万歳院台・平山古墳群などは,墳丘が小さく,主体部は河原石積の半地下の横穴式石室墳を主体とするもので,直刀・鉄鏃・金環・玉類などを副葬品として伴うものである.また,瀬戸岡古墳群も,地表面下に河原石を盛って主体部を構築しているもので7〜8世紀代のものであろうと考えられている.
左岸の白糸台,高倉両古墳群は,ともに国府の東と西に接して高倉1号墳を除いて墳丘を失った姿で見出されたものであり,その内部主体は明らかではない.しかし周溝中より検出された土師器などよりみると,6世紀の後半に遡るものもあり,かなり古く位置づけられる古墳が武蔵国府の設置以前に当該地域近くに存在していたことが明らかにされたことは注目されるであろう.
横穴墓は,かなり造営されている.特に坂西横穴墓においては,内部を白色粘土で塗布したものが発見され,横穴墓における玄室内装飾の例として重要である.
中流域の古墳及び横穴墓は,6世紀以降に出現し,7世紀に発達し,8世紀に入って造られなくなったようである.
このように瞥見してくると,多摩川流域に栄えた古墳時代とその文化は,古墳及び古墳群の示すところより,4世紀より8世紀に及んでいたことが明らかであり.その歴史的背景には在地富豪層の展開を軸としながらも,渡来した人たちの具体的な痕跡を地域ごとにみることができるのである.