4.3 竪穴集落の性格と生産の様相
前のページに戻る 次のページを見る 目次に戻る 表紙に戻る

4.3 竪穴集落の性格と生産の様相

 多摩川流域における古墳時代の集落は,竪穴住居より構成されている.縄文時代以来の伝統的な住居構造としての竪穴住居は,東日本においては平安時代に至るまで用いられたものであり,古墳時代においても一般的な住居であった.しかし,高塚古墳の被葬者のごとき,地域における富豪層の住居は,家屋埴輪あるいは家屋文鏡にみられるごとき高床式住居であったことを留意しておくことが肝要である.

 古墳時代の展開は,既にみてきたように西歴3世紀の末より4世紀の初頭ごろにかけて出現した古墳によってそれの上限が設定され,以降,群集墳の形成が終焉に向かった7世紀の前半ごろをもって一応の下限と理解されている.この間における時代の展開の目安として土器型式の認定による年代決定が行われているが,その対象とされている資料は土師器(土師式土器)である.

 南関東地方における古墳時代の土師器編年は,五領式期→和泉式期→鬼高式期とされ,それに続く奈良〜平安時代の真間式期→国分式期と続くことが示されている.

 多摩川下流域において壮大な前方後円墳が築造されたころ,竪穴住居に住む一般の人びとの用いていた土師器は和泉式であった.そして,上流域付近に至るまで群集墳が形成されるころの土師器は鬼高式より真間式にかけての時期として把握されている.

 古墳時代の初頭(前期)の土師器は,五領式と呼ばれる弥生式土器に後続するものであるが,この時期の集落としては,多摩川下流の右岸,矢上川に面して営まれた神庭遺跡(川崎市中原区井田)が調査されている.神庭遺跡は,下末吉台地上に選地しているもので,沖積地を見降ろす位置にある.住居は,約40軒が調査されているが,すべて竪穴住居である,それは平面プランが方形を呈し,中央よりやや片寄って炉が付設されているもので弥生時代終末期の住居と連続性を持つ形状である.この遺跡では引き続き,和泉式期を経て鬼高式期まで集落が形成されていた.調査された住居の概数は,和泉式期2軒,鬼高式期13軒であるという.

 五領式期の集落立地は,弥生時代後期の集落立地と同様に平坦な洪積台地上にあり,その台地は多くの場合,舌状に延びた台地,すなわち台地の隣接地域に洪積地が認められることが一般的である.このような洪積台地上に立地する遺跡が普遍的である一方,自然堤防上に立地する集落もある.それは,特に和泉式期になるとみられる現象であり,下流右岸の宮内遺跡(川崎市中原区)などにその典型が認められる.五領→和泉の段階における集落の立地は,生産基盤である水田稲作農耕の可耕地との関係において成立していることが考えられ,それは集落の隣接地に広い洪積低地の存在を無視することはできない.そこでは自然の低湿地を利用する農耕技術の展開が想定されるのである.住居内よりは,土師器の他,滑石製の玉類,土製の祭祀土器が出土する例もあり,祭祀のあり方を考えるうえに興味深い.

 右岸の神庭・宮内遺跡などの存在地域における古墳としては,白山・観音松古墳などがあり,それら大規模な前方後円頃の出現を可能ならしめた農業生産力の基盤が,これらうずもれた多くの竪穴住居より構成される集落に求められるのである.

 同様なことは,左岸の狛江古墳群の存在する台地上においても指摘することができる.そこでは,まだ発掘された資料が多くないが,古墳群の存在する地域に接して和泉式期の集落が調査されており,古墳群の形成がその地に存在した竪穴住居より成る集落のあり方と密接に関係していることを示している.

 鬼高式期は,多摩川流域の下流より上流付近に至るすべての地域にといっても過言ではないほどに規模の大小はあれ,古墳が築造され,横穴墓が盛んに用いられて群集墳が形成された時期に当たる.この時期の集落は,前代の集落立地を踏襲しながらも,河川より遠く離れた地にまで集落の立地を求めていく.丘陵のかなり奥にまで集落の存在が認められるようになるが,その場合にあっても至近地に低湿地が認められる,谷水田の開発である.

 鬼高式期の大集落として知られる中田遺跡(八王子市中野町中田)は,多摩川中流で合流する浅川に注ぐ川口川の北岸に接して存在する徴高地上に立地している.その徴高地は,東西約600m,南北約90m(最大幅の部分)の広さを持ち,周囲は低湿地となっている.遺跡は,縄文時代中期より平安時代にわたる複合集落遺跡であり,126軒の住居が発掘されているが,その中で鬼高式期の住居は76軒が検出されている.この76軒の住居は,出土土師器の観察によって3期に細分され,古いほうよりT期38軒,U期23軒,V期15軒と一時期における住居数が減少する傾向がとらえられている.そこには.集落規模の縮小性が看取され,集落の拡散が進行していったことが示されている.この中田遺跡で知られる集落規模の分散化傾向は,ほぼ6〜7世紀の段階における新たなる水田可耕地への進出であり,それに伴って多摩川支流の上流域にまで集落の形成がなされていった一側面を示しているようで興味ある現象といえるであろう.丁度この時期に,小規模の円墳が点として築造され,一方,横穴墓が台地の縁辺および狭長な谷の奥部にまで営まれるようになっている.そこには,集落の拡散とそれに裏打ちされた広範な人びとの群集墳形成への参画がうかがわれるのである.

 なお,6世紀に入ると古墳に埴輪が樹てられるようになるが,多摩川の中・下流域にその例が知られている.埴輪の生産は,埴輪樹立古墳の数と比例することが考えられるが,その窯跡は下流右岸の白井坂窯跡(川崎市高津区向ヶ丘)の存在が知られるのみである.このような農業以外の生産遺跡としては,他に玉作遺跡の存在が知られている.下流右岸に位置する久地不動台遺跡(川崎市)がそれであり,この遺跡よりは攻玉の未成品が出土している.



前のページに戻る 次のページを見る 目次に戻る 表紙に戻る 文頭に帰る
4.3 竪穴集落の性格と生産の様相