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645年に断行された大化改新は,天皇を中心とする中央集権的な国家体制を確立することに眼目が置かれたが,一方,中国より律令の制度を採り入れ,新たなる政治が開始された.改新の年には早くも東国に国司が派遣され,戸籍の作成,田の調査などが行われた.この東国には武蔵国も入っており,直接的に改新の結果を体験することになった.その後701年(大宝元)に大宝律令が制定され律令国家の体制が整えられるに至った.令制によれば,中央に神祇・太政の二官と八省などが置かれ,地方は60国に区分され,国郡郷の3編成となった.そして国は大・上・中・下の4等級に,郡は大・上・中・下・小の5等級に,郷は50戸をもって1郷とした,郡は郷の数によって区別され,大郡16〜20郷,上郡12〜15郷,中郡8〜11郷,下郡4〜7郷,小郡2〜3郷とされたのである.国には国司,郡には郡司,郷には郷長が置かれ,それぞれの等級によって役人の配置数が定められるところとなった.
このように組織化された中で置かれた武蔵国は,かつての武蔵国造と秩父国造の故地であり,多摩川左岸と右岸の一部,そして荒川右岸の大部分を占める範囲であった.前項でみた田園調布を中心とする古墳群は初期の武蔵国造の中心地であり,また,後に荒川右岸の埼玉地方に形成された埼玉古墳群は多摩川流域より移った後の武蔵国造の勢力の中心地と考えられている.国造(くにのみやつこ)は,在地豪族の首長であり,国造の所在地は,令制の施行後は,郡の中枢地域となって地域的な政治の拠点となっていった.
武蔵国府は,多摩川の中流域の左岸に設置された.この地の下流には狛江の古墳群の存在が示すように渡来系の豪族の勢力地であり,それを避けてさらに上流の地に国府が設けられたようである.
武蔵国は大国であり,それに属する郡は『延喜式』によれば21郡であった.すなわち,久良岐・都筑・多麻(多磨)・橘樹・荏原・豊島・足立・新座・入間・高麗・比企・横見・埼玉・大里・男衾・幡罹・榛沢・那珂・児玉・賀美・秩父である.これら諸郡の中で,多摩川流域の郡としては,多磨・橘樹・荏原が該当し,都筑が一部接しているようである.それら郡に所属する郷は,多磨10,橘樹5,荏原9,都筑7であった(『和名抄』).国府の置かれた郡は,多磨郡で,10郷を含んでいた.この多磨郡の範囲は,多摩川の左・右両岸に及んでおり,武蔵国中で最大のものであった.
国庁の置かれた場所については,従来,諸説があったが,いずれも現在の府中市・大国魂神社とその周辺であり,府中の名称とともに動かし難いものであった.
最近,武蔵国庁跡を発掘調査の方法によって究める方法が軌道にのり,大国魂神社境内の宮之祥(みやのめ)神社を中心とする地域より雄大な礎石・掘立柱を持つ瓦葺き建物跡の一部が検出され,その位置がほぼ確定されるに至ったのである.しかし,この地域は,後世数回にわたって建物の建替えが行われ,また,地下の保存状態が必ずしも良好でなかったこともあって,その全容を検出することが不可能であったことが惜しまれる.
この国庁跡より多摩川をはさんで右岸には小野神社(多摩市)が鎮座している.この小野の一の宮と呼ばれている神社の比定地は2個所あり,一は府中市内,二は多摩市内であった.多摩市の小野神社では,考古学的所見より多量の瓦を出土する場所であり,また神社を載せる徴高地上には,古墳時代より平安時代にかけての大規模な集落が営まれていたことが明らかになってきた.その一部,落川遺跡(日野市)の発掘成果は,誠に驚くべきものがあり,国庁跡所在地をしのぐ青磁などの重要遺物が出土している.そこで,小野神社は多摩市のそれをあてたいとする考え方が有力視されてきているのである.
国庁跡は,国府の中心的な位置を占めていることは明らかであるが,武蔵国の場合は,多摩川に接している洪積丘陵上が選ばれている関係より,その位置が国府域全体の中で南端を占めることになる.したがって,国府域は,国庁を南限に北に形成されていたことになる.
国府域内の発掘が進められた結果,当時の住居は竪穴式を主体とし,それに掘立柱建物を伴うことが知られ,特に,国庁付近を遠ざかるにつれて,竪穴住居が多くなると同時に,住居同志の切り合い,重復もみられなくなる,という注目すべき事実が明らかにされてきた.そして,竪穴住居跡の中より
帯(かたい)が検出される例も多くなってきている.
帯は,官人が佩用していたものであり,官人住居の有様を推察する好資料となっている.それとともに硯・刀子の出土もあり,「刀筆の使」であった国庁勤務官人の日常生活を彷彿とさせるものがある.
かかる
帯・硯・刀子などを出土する竪穴住居跡は,多摩川の流域より点々と検出されており,新しい古代史像を構築する史料となっている.
このような国府内あるいは付近で見出されている竪穴住居跡の年代は,10世紀ごろまでのものが多い.それは,ほぼ奈良時代より平安時代の前期までの時代に当たるもので,土中にうずもれた資料の発掘は,武蔵国の古代の実態を明らかにするものとして注目されることは疑いない.
多摩川の左右両岸には,この時代の集落がかなり分布し,さらに,多摩川に注ぐ多くの支流を遡っていくと,そこにも奈良時代より平安時代にかけての集落が営まれていることを知ることができるのである.その多くは,洪積丘陵上の場合は付近に涌泉あるいは低湿地を持ち,徴高地上のものは広大な沖積低地に隣接している.それは,農耕の適地として集落選地を持つものであり,生産の主体をみることができるのである.
多摩川の下流の沖積低地上に残る徴高地には,奈良時代〜平安時代にかけての鹹水性貝の貝塚が形成されている.蒲田神社(大田区)の付近などにその好例をみることができるのであるが,その時代そこが既に生活の適地として選ばれていたことが知られると同時に,そのころ,付近が海岸であったことを示しており,興味深い.採集された貝類にはハマグリ・シオフキ・サルボウ・アサリなどがあり,多摩川の河口の位置の問題を考えるうえにも重要な資料となるであろう.