3.1 上杉氏・太田氏と享徳の乱
前のページに戻る 次のページを見る 目次に戻る 表紙に戻る

第3節 太田氏・上杉氏と多摩川

3.1 上杉氏・太田氏と享徳の乱

 1439年(永享11)に足利持氏が死に,その子成氏(しげうじ)が鎌倉に入ったころ,山内上杉家は憲忠,扇谷上杉家は顕房の若い当主が後を継いでおり,その実権は「東国無双の案者」といわれていた長尾景仲(昌賢と号す)と太田資清(道真と号す)とによって把握されていた.

 上杉氏と太田氏はともに丹波国の出身といわれ,大田氏の祖となった資国が,丹波国上杉圧(京都府)の地頭の上杉重房に仕え,以来,太田氏と上杉氏の主従関係が成立したといわれている.1252年(建長4)宗尊親王の関東下向にあたって,上杉重房と太田資國はともに親王に従って関東に来住したといわれている.

 上杉重房の子頼重の娘の清子は,足利貞氏に嫁して尊氏と直義を生んだ.このために上杉氏は足利氏の外戚となり,尊氏・直義・義詮および基氏の関東支配に際しては足利氏を補佐して上野・伊豆・武蔵・上総・越後などの守護職を継承し,やがて関東管領職を代々世襲するようになった.

 太田氏の所領が相模と武蔵とに関係が深いのは,その主家であった扇谷上杉氏の代々とその所領が両国に多かったためであろう.

 成氏の関東下向の翌年,両上杉氏の家宰の長尾景仲と大田資清は,足利成氏の両上杉氏討伐を必至とみて,4月20日機先を制して.500余騎で成氏を襲った.成氏は江ノ島にのがれ,これを追って景仲・資清らは21日腰越(藤沢市)で戦った.山内實忠も鎌倉を出て,相模の七沢山にたてこもった.この合戦は,まもなく山内上杉憲實の弟の仲介によって和睦が成立し,成氏は8月4日桐ケ谷(鎌倉市)に入り,山内寅忠も10月鎌倉に帰った.大田資長19歳の年のことである.世にこの合戦を「江ノ島合戦」という.

 鎌倉に帰った成氏はすっかり鎌倉御所きどりで,判物(はんもつ)や御教書(みきょうしょ)を発布している.このよぅな成氏の鎌倉御所きどりは,おそらく両上杉氏と長尾・太田氏らの反感を助長せしめていたことであろう.

 江ノ島合戦ののち,成氏が長尾・太田氏らに味方した者の所領を没収するや両者の反目はがぜん再発しはじめた.そしてついに1454年(享徳3)12月17日,成氏の山内憲忠急殺事件が勃発するや,両者の対立はいまやどうすることもできない段階に突入し,両上杉氏とその家臣らはふんぜんと成氏に挑戦し,関東はこれより大混乱の巷と化してしまうのである.

 翌1455年(康正元),成氏は千余騎で府中の高安寺に陣した.

 上杉軍は山内房顕と扇谷顕房の軍勢に犬懸上杉禅秀の子憲顕・憲秋らが合体した連合軍であった.合戦は正月21・22日がとくにはげしく,立河原(立川市),分倍河原(府中市),高幡(日野市)で行われた.22日には,越後上杉氏の援軍も加わり死傷者が続出したという.これが第1次の立河原合戦である.

 上杉方では,扇谷の当主顕房が夜瀬(三鷹市)で戦死し,犬懸憲顕も重傷をうけ高幡の金剛寺で自殺したという.また多摩の豪族の大石房重や重仲らも戦死した.一方,成氏方でも石堂・一色・里見および世良田らの多数の戦死者がでた.しかし成氏は攻撃を続け,ついに上杉方は総くずれとなり,景仲らは常陸の小栗城に敗走した.

 同年3月,足利幕府は山内房顕と扇谷政真(顕房の子)をたすけて成氏を討伐することに決定し,駿河守護今川範忠を急派せしめた.

 こうした状況下で,成氏は閏4月には小栗城を攻撃し,6月に入ると下総古河城(古河市)に陣を移した.

 この成氏の古河移陣によって関東は成氏方と上杉方とが,利根川,渡良瀬川および荒川を双方の防御線として対峙する形勢となり,成氏はこれ以後古河公方と呼ばれることとなった.

 成氏は古河移陣以後,康正・文正・応仁・文明と改元が行われたにもかかわらず,幕府への反抗の意図から享徳の年号を使用しつづけた.峰岸純夫はこの点に注目して江ノ島合戦以来の成氏と両上杉氏の対立を「享徳の乱」と呼ぶことを提唱している(参6).

 この康正元年9月19日,太田資清は家を資長にゆずって,剃髪して道真と号したという.道真45歳,資長24歳のことである.



前のページに戻る 次のページを見る 目次に戻る 表紙に戻る 文頭に帰る
3.1 上杉氏・太田氏と享徳の乱