3.2 太田道灌と両上杉氏
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3.2 太田道灌と両上杉氏

 1457年(長禄元)将軍足利義政は,両上杉氏を救い,古河公方の足刺成氏を討伐するために,6月には渋川義鏡(よしかね)を,12月には弟の足利政知(堀越公方)を関東に派遣することにした.しかし,義鏡や政知の下向はいたずらに関東の分裂をはやめ,両上杉氏の対抗を招来する結果となってしまった.これより1476年(文明8)の長尾景春の反乱にいたるまでおよそ20年間,関東は古河公方・山内上杉・扇谷上杉・渋川義鏡・堀越公方らの勢力争奪の戦場となってしまった.

 この間山内上杉家では,1463年(寛正4)長尾景仲が,1466年(文正2)には当主房顕が没した.幕府は越後守護の上杉房定の子の顕定にあとをつがせた.この顕定の家宰が景仲の子景信である.また道灌の主家の扇谷上杉家では,持朝の子の顕房の戦死後,応仁元年河越城で持朝が,文明5年持朝の孫政真が没し,政真のあとは叔父の定正(持朝の次男)が31歳で扇谷上杉家を継いだ.

 文明5年6月23日,山内上杉家の柱石の長尾景信が61歳で没した.山内顕定は景信が死ぬと景信の嫡子景春をさしおいて景信のあとを景信の弟の忠景につがせた.景春はこの顕定の処置を不満として反乱に立ちあがった.太田道灌は景春の反乱の背後に当時自立過程にあった関東の中・小武士がいることをみぬいて景春即滅を提唱した.しかし,この提案は顕定にも定正にも受け入れられなかった.文明9年になると,武相の中小武士らが景春党となり蜂起しはじめた.道灌は顕定と定正に景春との和平を提案したが,このときもまた受け入れられず,文明12年の日野城落城まで,城攻めや野戦に30余度も出撃して景春とその与党と戦うことになった.

 道灌が景春を攻慶している間に定正と顕定の間が次第に険悪なものとなってきた.両家が対立することは,両家滅亡の無謀な行動であることを定正も顕定も十分知っていたはずである.それなのに,両家は相反目して関東の争乱は末期的症状に突入することになってしまった.その原因は,山内顕定の成氏対策の急変にあったといえよう.

 山内顕定は,もともと堀越公方足利政知の関東管領であった.その顕定か主家の政知の存在よりも古河公方足利成氏の存在を重視し,仇敵成氏と親しみ始めたことに両上杉氏対立の原因があった.

 文明12年2月25日,成氏は長尾景春らとともに越後守護上杉房定を仲介として,顕定と定正との和融を条件に幕府に和睦を申し入れた.その結果,文明14年11月27日,和睦が成立し,幕府の反成氏行動と成氏の反幕府・反堀越公方・反上杉の行動は江ノ島合戦以来32年ぶりに停止されることとなった.

 和睦の成立後成氏と景春とは古河域に,政知は堀越御所に,山内顕定は鉢形城に,扇谷定正は河越城に入り,道灌自身は江戸,河趣の両城を補修し.城内では練兵に精進してひたすら実力の培養にっとめることになった.

 しかし,この道灌の行動は,顕定にも定正にも正しく理解されず,逆に道灌の謀叛として把握され,文明18年7月26日,相模国糟屋(神奈川県伊勢原市)の定正の居館でこともあろうに,主君定正の手によって殺されてしまった.時に道灌55歳であった.



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