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1524年(大永4)正月,北条氏綱の江戸城攻撃により,上杉朝興は河越城に敗走し,30数年に及ぶ扇谷上杉氏の江戸城支配は終わり,後北条氏の武蔵支配が始まった.
しかし,江戸城が陥落したからといって,氏綱は武蔵全域をただちに支配しえたわけではない.氏綱は江戸占領よりその死(天文10年7月19日)にいたるまで,実に17カ年余を上杉氏とその家臣らと対抗しながら,ゆるゆると,しかもしわじわと一進一退をくり返しながら武蔵支配を進めていった.とくに太田・藤田・大石および三田氏という上杉家臣と氏綱との対抗が武蔵野にくり返されていった.
1530年(享禄3)正月,河趣城主朝興は「先年の恥(江戸合戦)をそそぐべし」と江戸城周辺と小澤・瀬田谷両城を攻め,6月には武蔵府中に陣を進めた.小田原城にいた氏綱は「何ほどの事のあるべき.押しよせて蹴散らさん」と,16歳になった氏康を出陣させてたたかわせた.6月12日,朝興方と氏康方の軍勢は,府中の南,多摩河原の小澤原で戦った.
器量・骨格も父にまさり,謀略も腕力も強かった氏康は「聚散応変・進退当度」の活躍をしたので,人心不調和の朝興方の軍勢は府中に押し立てられて大敗した.世にこの合戦を「小澤原の合戦」といい,氏康の初陣として有名になった.しかし9月に入ると,太田資頼が岩付城(岩槻市)を奪回したために氏康の行動はこの年もまた一進一退の状況となつた(参9).
1537年(天文6)に入り,朝興が55歳で死ぬと(4月27日),氏綱方の勢いはさかんになり,7月16日には河越城,7月22日には松山城を落とし,翌天文7年2月2日には葛西城を落とした.
しかし,1545年(天文14)になると,山内憲政・扇谷朝定らは氏康の義兄弟の北条綱成が守る河越城を包囲してこれを一挙に奪回しようとした.氏綱のあとをついだ氏康は翌天文15年4月20日の夜,河越城を包囲している両上杉氏に夜討をかけた.扇谷朝定は,この河越の夜討によって,22歳の若さで戦死して扇谷上杉家は滅亡し,山内憲政は上野平井城に,足利晴氏は下総古河城に敗走するというだらしない敗け方となった.
この河趣城の夜討は関東の戦国期の合戦史にとって,3つの注目すべき意義がある.その第1は,この合戦を契機にして武蔵武士の大半が氏康方となり,以後小田原北条氏の勢力が関八州にのびたこと.第2は,従来の合戦は夕暮がせまると中止された昼間戦が多かったのに対して,河越攻略は夜戦であったこと.第3に,この合戦でもっとも活躍したものが,透波(すっぱ)とか乱波(らっぱ)とかよばれた忍びのものであったことなどであった.
そしてこの河越夜討の5カ年後に,氏康は着々と自力を武蔵にうえつけ,天文20年7月には山内憲政を平井城に攻め,翌21年正月には憲政を遠く越後に追放することができた.こうして両上杉家の勢力は相・武・上の三国から排除されてしまったのである.