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後北条氏,とくに氏康は1550年(天文19),1559年(永祿2),1564年(永祿7)の3回にわたって税制を改革した.氏康の税制改革については,佐脇栄智の論考に詳しく述べられている(参14).天文19年の改革はとりわけ画期的な改革で,氏康は従来の諸公事諸点役などを廃して,それにかわるものとして,「百貫文の地より六貫文懸り」という反銭(役銭ともいう)を設定し,同時に万雑公事を吸収した貫高4%の懸銭を創設したという.反銭と懸銭の合計が,貫高の一割であるというのは,誰にでも計算しやすい税制の確定であった(反銭は,5年後の弘治元年,本反銭の3分の1とか2分の1とかが,増反銭として増徴されることとなった.したがっていままで6%の本反銭が9〜8%となったのである).
この反銭・懸銭の外に,後北条氏は棟別銭を各郷村に賦課した.棟別銭については佐脇.栄智の『後北条氏棟別銭考(参15)』という好論考がある.その要点を列記すると,次のようになる.
@ 氏康は天文19年の税制改革にあたって,従来の棟別50文を35文に減税して設定した.この税額は天正18年(1590)の後北条氏の滅亡時まで変更されなかった.
A 氏康は,1555年(弘治元)の税制改革のときに,正木棟別銭という新税目を創設した.その税額は,はじめ1年おきの棟別40文であったが,永禄3年からは毎年棟別20文と改めた.正木という意味は米を八木というのに対して麦のことを意味したのであろう.「正木棟別麦」という称呼もある.
この棟別銭と反銭・懸銭の3つを後北条氏の三税といい,氏康がこの三税の税制を確立したのである.
百姓たちには,このように諸税がかけられたり,軍役に出役させられたり,後北条氏の厳重な統制にその身をしばられていたが,一方では欠落という形で後北条氏や領主の圧迫に対して抵抗を試みている.この欠落の事例が多摩郡関戸にある.
関戸郷はその高辻が550貫634文に及ぶ後北条氏の重臣の松田氏の所領で,天正14年3月11日までは関戸の代官は森岡という在地領主であったと思われる.その森岡が非分の沙汰したため,関戸の上層有力百姓が組織的に森岡に抵抗して欠落し,その結果ついに松田氏は森岡を関戸郷から追放せざるを得なくなった.その文言は次のごときものである.
(前欠)(前略)右は戌(天正十四年)三月十一日,森岡近年非分これあるか,百姓書付けに驚き郷を欠落せしむる間,すなわち(森岡を)成敗し候,しからば郷中の所務の辻明白に書き立て,百姓六人に郷中をあずけ候.
当年戊の歳納所未進なく,速やかに之を致に就ては,代官を停止,後年まで六人の者に預け置くべく候,すこしなりとも,横合非分これあるべからず,年貢渡し方の儀までは,請取次第,給方のことは,印判にこれあるべし,もし横合あらは,則時に書き付けを上ぐべく候,将又諸色(はたまたしょじき)無沙汰に至りては,六人の者まで越度に処すべく候,定め置くく状,件のごとし,

このように多くの百姓が住みなれた郷村をすてて郷外へ走ったことは,後北条氏の支配体制の危機であった.後北条氏はこの百姓の欠落・逃散に対応して,労働力の招致と諸税免除と夫食(ふじき)(種子食料)の支給を条件にして「召返しは国法なり」とさかんに百姓らの還任策をはかっている.しかしこの国法の強権の網の目をくぐって欠落しおえた百姓も多かったことと思われる.
後北条氏がその領国下に数多〈設定した六斎市や新宿は,この欠落百姓の逃げこみ場所として格好の場所であったのではあるまいか.逆にいうと後北条氏はその危機への対応策の1つとして六斎市や新宿を設定したのではあるまいか.要するに,欠落百姓は新天地を求めて六斎市や新宿に集中したのであろう.このように考えると,欠落と召返しは,おなじ事態の2つの現れ方であったといえるのではあるまいか.