2.1 近世の支配体制
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2.1.3 新田開発

 本地域の新田開発は前期(天正18年から元禄ころ)新田が中心であるが,中期(元禄ころから宝暦ころまで)の武蔵野新田では分散的で,時期も長い.まず前期の代表として新町について述べよう.『仁君開村記』によれは最初野上村地先に元島なる14〜15戸の集落が作られたが,関ヶ原の戦の後,移住民が退転して廃絶した.その後,忍城主成田氏の旧家臣で師岡村に居を定めた吉野織部之助が,近隣名主の協力を得て1612年(慶長17)に開発に着手,近村19力村に勧誘しみずからも孫とともに移住し1638年(寛永15)までに35戸に達した(参19).当村の畑屋敷合計158町01畝29歩で上畑0.5%,中畑7.8%,下畑41.0%,下々畑45.1%,切畑2.7%,屋敷0.6%であった.その短冊型の地割が既に五日市町,伊奈にみられ,新町を取り巻いて下師岡・羽村・河辺・野上・今寺の諸村がある.友田村の検地帳はまだ未見のほか,塩船・野上両村の分は不完全であるが,それらを整理して1町以上所持する村名を挙げたのが表6.3.3である.新町・河辺・羽村への出作村は上成木・二俣尾から東にみられるが,1村3〜10町歩の村は千ケ瀬(新町・河辺に主として出作),吹上(新町・野上),野上(新町),谷野・木野下・藤橋3力村は今寺へ出ている.11〜14町歩は下師岡(野上・新町),今寺,黒沢は新町,多摩川に沿う畑中・駒木野・長淵3村は新町の他,河辺・羽村へ出ている.これに対して青梅は53町歩で上下師岡・野上・新町に及び,村内の経営面積に加えるとかなり大きく,農村としての基盤は十分なのであろう.しかし不完全な史料ながら日向和田以東において青梅は村内の耕地に広大土地を所有したとき,必要な労働力を確保し生産力の低い下畑・下々畑を主とする出作地を開拓できたであろうか.いずれにしても諸村が経営視模を拡大したことは重要な事実である.

 第2は新町の開拓によって起きた入会地への影響である.すなわち元和年間(1615〜1623)に南小曽木・黒沢両村に残る入会地の帰属分や入会村を決定したが,1664年(寛文4)に黒沢村では入会地の一部を林地化する動きが起きた.入会村との対立は1768年(明和5)・1776年(安永5),1852年(嘉永5)にも繰り返された(参20).これは南小曽木・御岳・日影和田(参21)でもみられたし,戸倉(参22)・大久野のように明治まで残ったところもある.

 新田村の新町と付近の母村との関係がすべてとは限らない.上流の大丹波村儀右衛門が享保10(1725)年に開いた榎戸新田では多摩川筋から12人,秋川筋10人の移住者があり同14年戸倉村郷左衛門が開いた戸倉新田へは戸倉1人,檜原22人,深沢1人が出た(参23).送り出した戸数は前者で6,後者で22であるが,移住者の残した土地が母村の階層に与えた影響はそれほど大きいとは思えず,むしろ後まで氏子・檀家の関係が残り,商取引関係が続いた.



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