2.3 商品生産の普及
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2.3.3 養蚕

 養蚕については多摩川・秋川両流域間に若干の差がみられるので,前者から述べてみよう.この地では近世初期から物成として綿を納めているが,当時まだ木綿が入っていないので絹綿と考えられ,養蚕が推測される.こうした中で1690年(元禄3)八王子で開かれた信上奥野甲武相7カ国の蚕種業者の会合が開かれ,八王子4名,平井彦兵衛・友田太郎兵衛・青梅助左衛門が出ているところから(参44),養蚕の盛んなことが察せられる.同15年に境村明細帳には女子の農間の稼ぎに養蚕が書き上げられて相当に普及していたことを示す(参45).

 一方織物については早くも1638年(寛永15)の『毛吹草』に滝山横山紬島とか,1732年(享保17)の『黄金産金袋』の京織物の中に紬島(八王子)・青梅島・木入上田島(八王子),八王子平の名があり,これが次第に普及して同15年には青梅商人が江戸大和屋四郎右衛門より綿を買い入れ(参46),天保3年八王子成内家の当地域における負債が1,039両1分,銀14,8匁のうち長淵が3名34両1分であった(参47).この2事実からも当地方と八王子との関係がわかる.その人数も1794年(寛政6)から明治7年までの縞買いの人数は青梅12人(1人が15年以上営業)の外伊奈10人,五日市4人,大久野1人,小机1人が数えられる(参48).製品を八王子や江戸に出した縞買いが価格を守り品質の統一や流通に慣れるために作った仲間議定連印者は文化10年15名,文政2年13名,同11年19名,同13年22名,天保3年29名,同9年には下村から東は藤橋まで青梅を除いて25名いた(参49).これだけ縞買いが活躍したにもかかわらずその生産構造は不明で,1853年(嘉永6)に上海沢・下海沢・白丸3村における機の普及の程度はそれぞれ44挺,24挺,35挺,1戸当たりの平均は1.5挺,1.5挺,1.2挺で(参50),出機などは不明である.

 秋川沿いの村では元禄3年上述のように平井の彦兵衛の名がみえ,1858年(安政5)生糸生産高は表6.3.4のごとくで,その普及率も高い(参51).1862年(文久2)に戸倉の商人が檜原村民に賃糸をひかせたように(参52),製糸には分業が行われ始め,檜原より西は製糸地帯になった.しかし安政の開国で繭価が暴騰して対処でき難くなると,仲買人19人が慶応2年に組を作って対抗した(参53).しかしこの地方の生糸だけでは需要を満たすことができず,八王子付近からも求めた.1828年(文政9)鑓水の五郎吉家の売掛代金控によると大久野・伊奈・五日市・小和田各1戸ずつに,同11年に平井の3戸,翌12年同様平井3戸,伊奈1戸に売っていたごとくである(参54).1786年(天明6)小和田で,1800年(寛政12)乙津で木綿島・紬があったが,まだ特産の黒八丈の名が出ていないころの青梅・五日市・伊奈・平井の産額は表6.3.5のごとくである.ところがこの地域で,宝暦7年,八王子の縞買の在方への活動が北方では伊奈・平井に及んだこと(参55),寛政12年八王子の宿内縞買が下川口の村方縞買から294両余の反物代金支仏いを滞納したとき代理人に伊奈・平井両村が依頼されたこと(参56),前述成田家の債権者が青梅を除いて伊奈・大久野・小机・平井・三内に10人53両に及んだ.また文政9年上述の鑓水の五郎吉家の取引先もこの地域に限定せられたこと(参57),安政2年に戸倉から油平に至る範囲が八王子へ織物を出荷する範囲になっているし(参58),社会的活動も同様であるところからこれを八王子の近距離(数)圏といえるであろう(参59).

 しかし織物を中心に考察すると,五日市・伊奈・平井三市に関する史料がほとんどないのでわずかなものから推察する外はない.五日市の織物市は1754年(宝暦14)・安永6年・寛政12年・安政2年の村明細帳に市が記されているに過ぎないが(参60),第三者が天明年間の規模をみた場合は表6.3.5のごとくで,地元の史料とは傾向が一致しない.しかし明治5年,五日市で生産者12人で356疋を産し(参61),第1回内国博覧会への2人の出品者の創業が文化年中・天保5年とあるので(参62)生産は続行したが,五日市の商人が縞買いとして天保10年・慶応元年に八王子で活躍しても(参63),五日市の織物取引が八王子商圏に包含されていく姿を示しているものではないだろうか.

 伊奈も享保17年に木綿島商人の記載があるにとどまり以後記録は市立についてであって,あとは1803年(享和3)に中絶したが文政元年に再興したというが(参64),明治期には残っていず,市取扱高も表6.3.5しか残っていない.さらに平井は年は不詳の文書に「まげし紬の産」とあるのが最古のようで,伊奈と同様であるが八王子関係の史料に散見する.伊奈と違って明治期に雑品を扱うとして復活した点について考える要があろう.

 この3市場は八王子近距離商圏に吸収されてついに独立を維持することができなかったが,それには他にも原因が考えられる.例えば中神(昭島市)の中野家のように炭・木材などを天保6年に,28両も五日市から購入したり,山方諸村へ縁故による販売もある.檜原出身の戸倉新田の孫兵衛(平野家)は明和8年から安永7年までの間に主として伊奈から檜原村沢又・人里(へんぼり)にかけて32戸の農家を対象に件数からいえば大麦8,小麦8,粟6,稗1,ひきわり1,芋種2,糠1,塩1と販売した(参65).糠・塩を除くと大部分が日常の食料で,山地の不足を補うものであった.それは五日市の穀座が廃止された後,自由に取引ができたことにもよるが,販売方法として直接それに関連して駄賃稼ぎ(運賃)や委託販売などの形をとっていた.

 以上のように本地域は東の武蔵野台地から南の八王子へ織物・林産物・山葵たばこなどの商品販売と,林業労働・農間稼ぎ・駄賃稼ぎによる収入で決済する形をとって流通過程に巻き込まれていた.さらに文化14年青梅の柳屋文右衛門が「三井店割合」を引き受けて,三井に納むべき金を上川原から丹三郎にわたって最高17両から最低1分余集めたがその内容は不明である(参66).貨幣経済の浸透で次第に階層分化が進み,上昇転化した者に商業高利費資本・酒造業・山林地主などが多く現れた.



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