| 前のページに戻る | 次のページを見る | 目次に戻る | 表紙に戻る |
宝暦11年に多摩,高麗,入間3郡の田安領で村の林・山を再調査して山筏の増徴を命じた.本部19力村の惣代としてその減免を願って門訴した人たちが捕縛された.そこでその放免を願って箱訴に及んだがそれも捕らえられて,同13年に関係者が大量に処分された(参72).その後天明元年に武蔵上野に糸絹綿貫目改所を2国47力市場に10個所の故所を設けて運上を納めるように命じたのに反対して撤廃させることに成功した.こうしたことが国や諸領にわたった大規模な闘争に発展することになった.
その契機になったのは天明2年に始まる全国的な飢餓と米価の暴騰で,下層農民に深刻な打撃を与えた.天明4年に本地域外の村,五ノ神・川崎を一揆の中心として一帯に打ち毀しが起こった(参73).それは在々の穀物問屋など在方商人層,例えば山王前・名主等村方役人層を攻撃の目標としたが(参74),捕らえられた者の中に本地域の青梅・今寺・七日市場の者が含まれ,当地に対する影響が非常に大きかった.
ところが天保元年から7年まで断続ながらまた天災が起って農民への打撃が大きかった.この場合も地域に近接する村山地方で打ち毀しが起こったが,直接の原因は米穀・糠の高騰にあった.天保7年11月に起こったのは食料の不足と麦播付けのため肥料の糠の必要からで,計14人の名を書き上げて「穀買〆」「糠買〆」と指摘し打毀しを予告したものもあった.これもこの地域に近接して打毀しの対象に青梅「志野屋」や所沢,扇町屋の商人などが挙げられたが,このときは単に市先に止まり被害がなかったので貼札事件と呼んでいるが(参75),関東取締出役が出張し村々からの人足を出したこともあったので実行を防止し得たのであろう.
領主側の対応として文化2年関東取締出役が置かれ,文政10年寄場組合として青梅組合(13力村),氷川組合(16力村),五日市組合(34力村),檜原組合(11力村)が組織された.代官江川太郎左衛門は海防と治安維持のために村役人層や富農層の子弟を集めて農兵隊を組織し,その経費に一般から寄付を募った(参76).
幕末になって貨幣改鋳と開港による物価騰貴や,第2回長州征伐のための兵糧買付けに翌慶応2年の不作が重なって再び物価が暴騰したので,江戸・大阪などで打毀しが起こり,本地域でも武州「世直し一揆」が秩父郡名栗谷から始まった.そして飯能の穀屋を手はじめに,扇町屋・所沢から引又(志木)を襲った.これに少し遅れて他の隊が同じ名栗から青梅に出,一隊は御岳から大久野を経て五日市に入ろうとして農兵隊に撃退されたが,拝島へ出て八王子へ向かった隊も敗れた.その外,上州岩鼻や秩父盆地から名倉に出たものも鎮定された.一揆に参加したのは農民・日雇・職人らで,村役人層の中に指導した者もいた.多くの人々を巻き込んだのは米油酒の値下げ,質草取戻し,参加人足の呼集めで,高利貸し,穀屋,質屋,物持ちがねらわれた(参77).かくて世情騒然としたのが治まらない間に維新を迎えることになった.