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この地域の畑作を基軸にした産業の発展は江戸を市場として,ますます江戸との結付きを深め,いろいろの制限を取り除きながら進んでいった.
畑作の小麦・蕎麦は粉にして江戸へ売り込み,18世紀の半ばころからは水車製粉が急速に活発化していった.『上水記』は1788年(天明8),武蔵野地方に存在した水車のうち,玉川上水の分水を利用した水車33両を書き上げているが,このうち本地域内のものとして砂川村2両,柴崎村1両,大神村1両,拝島村2両,府中宿1両をあげている.府中宿のものは畑地より湧出する流れを利用するものであるが,いずれも18世紀後半の明和・安永・天明年間に設けたものである.杵を8本ないし12本備えて搗きの機能を持つとともに,石臼1台も併置して挽きの機能も持っている.挽臼によって製粉したのである.(図6.3.3 天明8年玉川上水分水水車分布図)
婦人の農間余業として行われた織物も,江戸の需要に支えられて盛んになっていった.八王子と拝島にはこの地方から山間部にかけて生産される青梅縞や黒八丈を集荷して江戸へ送る産地集荷市が立った.18世紀末の天明初年に立った絹市では,1年間に八王子が絹縞18,000疋,紬1,000疋,紬縞3,000疋を,拝島が絹縞5,000疋,太織縞1,000疋を集めていた(林玲子「関東生絹の流通構造」『土地制度史学』21).拝島の絹市は,その後八王子や青梅の織物市にその機能を奪われて廃絶するが,その織出しは地域の農村工業として一層発展していった.
製粉や絞油・酒造業などの農村工業を営み,あるいは織物を買い集めて江戸や八王子へ売る村の商人は,村の中で,抜きん出て豊かなものに成長していった.こうした人々の中で質屋を営み,貸金の抵当流れから土地を集めて地主に成長していくものもあった.村の主要な生産物を買い集め,肥料を販売し,金融を営み,地主として土地を貸す村の商人は,やがて村を支配するほどに成長していった.こうして,際立って富裕なものが出現する反面,貧しい農民も多くなり,その貧富の差も漸く大きくなっていった.
1784年(天明4)2月,羽村から起こり狭山丘陵南麓の豪農を襲った打毀しは,このような村における豊かな農民と,貧しい農民の対立をあらわにしたものであった(『羽村町史史料集』第5集).1836年(天保7)11月,天明4年に打ちさ毀れたと同じ家を襲うことを告げた貼札・捨札がなされ,問題の所在を知らせてくれる.1866年(慶応2)6月,武蔵国西部農村を巻き込んだ武州世直し一揆は,社会的矛盾の一層の深まりを示した.
こうした社会の変動に対して,幕府は暴動を抑えるという認識に立って,1863年(文久3),農兵制度をしいた.日野宿は,その農兵隊の一拠点であった.慶応2年の武州世直し一揆には各地の農兵が鎮圧に出動し,支配者の期待にこたえたのであった.
1867年(慶応3)10月,徳川慶喜の大政奉還,同年12月の王政復古のクーデターで幕府の支配は終わった.京都に明治維新政府が成立したが関東では,これまで通りの幕府の支配が続いた.
慶応4年1月.鳥羽伏見の戦で徳川氏は天皇に敵対するものとして,征討の対象となった.徳川氏を征討する東征軍が,東海道,東山道,北陸道の軍に組織されて関東に向った.甲州道中を江戸に向う東海道先鋒軍に対し,近藤勇がひきいる甲州鎮撫隊は,3月,甲州勝沼でこれを迎撃したが惨敗し,先鋒軍は江戸に入った.
多摩地方はこうして明治維新政府の治下に入ったが,新政府は3人の武蔵治県事を任命して支配に当たらせた.石高支配であった.