| 前のページに戻る | 次のページを見る | 目次に戻る | 表紙に戻る |
(1)南岸流域地域
多摩川の下流地域の領主の支配形態は,1590年(天正18)の徳川氏の関東入国後,翌19年,1594年(文禄3)の検地に始まり,1633年(寛永10)の地方直しを経て,1668年(寛文8)の天領総検地,それに1695年(元禄8)の総検地と地方直しに至る,幕府の一連の政策によって確定されていった.まず,南岸流域の現在の川崎市域は,当初,天領=幕府直轄領と旗本領が分布していたが,やがて旗本領の上知が進み,天領の増加と増上寺御霊屋料が設けられるようになった.慶安年間(1648〜51)に作製された『武蔵田園簿』(参78)によると,西北部の多摩丘陵から東南部の沖積層の平地と江戸湾に面した多摩川下流(六郷川)にかけて旗本領や天領に寺領合わせて80カ町村が分布している.このうち旗本領だけの村は全体の53%を占める42カ村が武蔵国都筑郡・橘樹郡の丘陵から平地にかけて分布し,それに天領や寺領との相給を含めるとその数はさらに多くなっている.これに対して,天領は33%の26カ村で,旗本との相給を含めると若干多くなり,全体として,橘樹郡の平地に分布し,すべて関東郡代伊奈半十郎忠治の支配地になっている(参79).
(2)北岸流域地域
北岸流域は,現在の調布・狛江市と世田谷・大田区の四地域が含まれ,99力村が分布している.これらの村は武蔵国多摩郡・荏原郡に属していたが,おおむね,多摩川に沿って武蔵野台地から沖積層の平地にかけて展開している.『武蔵田園簿』によると北東部は天領と旗本領,それに彦根藩井伊領,伊賀衆知行地が分布している.このうち天領は代官野村彦太夫と伊奈半十郎の支配地となっていた.現在の世田谷区には33ヵ村が分布していたが,入国当初は検地によって天領と旗本領・寺社領に編成されており,戦国時代の北条・吉良氏の遺臣は旗本に登用された一部を除いて,大半は土着帰農化して村役人となって村の開発に当たっていた.世田谷領は多くの旗本領と彦根藩井伊領から成っており,一部に天領と増上寺領が分布していた.現在の大田区内には42力村が分布していたが,大部分が天領で伊奈半十郎の一給支配となっており,一部に増上寺領が含まていた.
(3)一給と相給
下流両岸の流域は丘陵・台地から低地へ旗本領と天領が分布していたことが明らかであるが,その支配形態は一給を中心としながら相給の村々が散在していた.相給の村については特に南岸流域の橘樹郡小田村が,村高672石余で代官・旗本の7給,北岸流域の多摩郡下石原村(調布市)は260石余で代官・旗本(八王子千人頭)の7給,同烏山村(世田谷区)は274石余で代官・旗本の9給となっており,入組支配が一般に複雑であったということができる.これらの支配形態は江戸時代の後期になると大きく変わってくる.『旧高旧領取調帳』(参80)によって,幕末の形態をみると,全般的にみて代官松村忠四郎の一給支配が圧倒的に多くなり,その間に旗本領や彦根藩井伊領や増上寺御霊屋料が分布していた.こうした傾向は,幕府が江戸近郊の諸村に対し一円的天領化による統一支配を意図した現れとみてよいのであるが,幕府権力の村落への浸透は必ずしもこれと一致したものではなかったといってよい.