4.1 近世支配の展開
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4.1.2 近世村落の成立と鷹場

(1)鷹場制度の成立

 多摩川下流の諸村は,幕藩制社会が確立していく過程で検地の実施と給人支配の制限を契機として成立したが,小農民の自立政策を基調として単婚小家族経営を主体とした近世村落が形成されるのは寛文・延宝期であった.つまり寛文の総検地によって,初めて石高制による村高や,生産高を年貢の基準にするような石高が採用されることになったのである.これらの村は,検地と地方直しによって一給支配を中心としながらも,かなりの村は複雑な領地の分散・入組支配が行われており,そのため領主支配の弱さも認められたのである.このような錯綜した知行形態を補強していくため幕府は統一支配を可能にする方策として鷹揚の役割を重視するようになった.したがって,江戸時代の鷹場制度は個別領主の域を超えた統一的な支配体系によって組み立てられたといえる.

(2)江戸近郊の鷹場

 将軍家康・秀忠は鷹狩りを好み,放鷹を盛んに行っているが,そのため江戸周辺は早くから管理が行き届いていた.家康は駿府と江戸の間を往復するには,主として中原往還を利用したが,途中,稲毛領(川崎市)で放鷹を行い鶴や雁を補って西明寺や小杉御殿で休息した(参81).家康の放鷹は民情視察も兼ねていたから,軍事的にも政治的にも重要な意味を持っていた.初期より寛永期までの鷹場は,このように随次必要に応じて鷹狩りを行う場所として成立したのであるが,1628年(寛永5)に「江戸近郊放鷹制」がしかれると,江戸より5里(20キロ)以内の地域に将軍家の鷹場が設定されることになった(参82).その結果.六郷,生麦,綱島,加瀬,大井,池上,鵜ノ木,溝口の10力村が代官小泉次大夫吉勝の管轄下に置かれた.そして1633年(寛永10)には5里から10里(40キロ)の地域に御三家の鷹場が成立し,その範囲が拡大されることになった.鷹場は将軍綱吉の元禄6年に一時廃止されているが,鷹場内の治安維持や管理のための農民負担の面はそのまま継続されていった.

(3)享保期の鷹場

 1716年(享保元)に鷹場は再び復活され,同3年には葛西・岩淵・戸田・中野・品川・目黒の6筋に編成され,鷹場の整備と強化を図った.このうち品川筋には六郷領36村,川崎領4町25村,稲毛領20村が属し,これを東大森村の鳥見役所において管轄した(参83).このとき,各筋に鷹場組合が結成され,触次を媒介にした鷹場管理体制が確立したのである.このように下流地域の一部は鷹場に組み入れられたが,村民の負担も重くなり,連帯責任によって相互に監視を強めることになった.享保3年に将軍吉宗は品川筋で鷹狩りを行ったが,同7年,10年,15年にも放鷹と鉄砲試射のため大森や池上の寺社に出掛けている.ところで1719年(享保4)に,この地域で螻や蝗(いなご)や虫類が幕府に上納されている.これらの虫は鷹の餌に必要であっただけでなく江戸城の本丸・西丸の小納戸の飼鳥の生餌になったといわれている(参84).



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