4.1 近世支配の展開
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4.1.4 彦根藩井伊家の世田谷領

(1)彦根藩世田谷領の成立

 多摩川下流の地域には大名領は少なく,彦根藩世田谷領が唯一のものであった.井伊家は徳川政権下の譜代大名の筆頭に位置する大名で,幕閣の中枢にあったため関東で下野国佐野領と武蔵国世田谷領を飛地として支配していた.彦根藩主井伊掃部頭直孝は1633年(寛永10)に関東で5万石を加増された(計30万石).その際に多摩郡八幡山・大蔵・鎌田・岡本,荏原郡世田谷・弦巻・用賀・瀬田・上野毛・下野毛・野良田・小山(世田谷区),多摩郡岩戸・猪方・和泉(狛江市)の15村2,300石余を所領とした世田谷領が成立した.次いで1651年(慶安4)には,前年の多摩川の氾濫の対策として,幕府は下野毛村のうち高80石をつぶして川筋を変えたため,替地として井伊氏の領地に太子堂・横根・宇奈根・馬引沢の4村が加えられ,万治年間(1658〜61)には開村した新町村が組み入れられたので,世田谷領は合わせて20村になった(参88).

(2)彦根藩世田谷領の支配

 世田谷領の支配には吉良氏の遺臣で帰農していた大場氏を代官に起用したが,1739年(元文4)には用賀村名主飯田平兵衛も任命し,複数代官制を採用した.また,飯田代官が闕所追放された後は1786年(天明6)に宇奈根村名主荒居市兵衛が多摩川筋川除御普請肝煎役から代官に任ぜられた.しかし,1830年(文政13)には隠居を命ぜられ,以後は,大場代官と在府世田谷代官によって幕末に至っている.世田谷領代官は大場家が初期土豪経営から地主手作経営に移っているように飯田・荒居代官も名主兼任の農民代官の性格を持っていた(参89).大場代官も浮沈があったが,1794年(寛政6)大場弥十郎が代官になると,42年間にわたって民政を行い,その前半には村落復興政策を基本に制度の改廃,農民諸負担の軽減,貧民救済,潰株百姓の再興などに成果をあげ,荒廃の克服と安定した農民生活の回復に努めた(参90).

 多摩川下流の世田谷地方に分布する井伊領の領地は,直接は下野国の佐野奉行の支配下にあった.しかし,江戸近郊に位置したことから,江戸屋敷にいた江戸賄方,江戸元方勘定奉行からも指示を受け二重支配下にあった.そのため年貢徴収の外,江戸賄料でありながら,御用人足の確保,物資の調達,多摩川の川除普請などが代官の重要な任務になっていた.



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