4.2 宿場と農村の生活
前のページに戻る 次のページを見る 目次に戻る 表紙に戻る

4.2 宿場と農村の生活

4.2.1 街道と脇往還

(1)川崎宿の成立

 1600年(慶長5)関ヶ原の戦いによって徳川氏が覇権を獲得した.この年の7月多摩川下流に六郷大橋が架橋され,東海道の利用が高まった.1615年(元和5)には川崎宿も砂子・久根崎の2村合わせて150軒を数え,同9年には伝馬36疋を常備した正規の宿駅が成立した(参91).しかし,これが百疋を常備するのはさらに下って1640年(寛永17)のことであった.東海道は参勤交代に伴い,武家や公用人馬交通量は増加したが,川崎宿の宿財政は反対に困窮化し,災害の頻発がこれに拍車をかけることになり,常に幕府からの米金の助成によってかろうじて財政を維持していかなければならなかった.江戸中期,宿の本陣を勤める田中丘隅(休愚)が問屋・名主を兼帯し,六郷川渡船請負権が川崎宿に許可されることによってようやく宿財政が復興の兆しがみえるようになった(参92).江戸後期の川崎宿は1843年(天保14)には宿内は戸数541軒,24,433人,旅籠屋72軒(参93),1863年(文久3)には戸数が641軒に増加している(参94).

(2)脇往還の発達

 東海道が整備されていくと同時に本街道の支線でもある脇往還も発達し,特に江戸が政治の中心になると,江戸との関係で活発化した.江戸の虎ノ門を起点として多摩川を渡って南西に向かうのが中原往還,赤坂御門を起点とするのが矢倉沢往還(大山街道),また世田谷の三軒茶屋で矢倉沢往還と分かれて登戸を経て津久井方面に通じるのが津久井道である.その他に古道には鎌倉道がある.いずれも多摩川を渡船で渡り現在の川崎市域を通って横浜市域へ抜けた道である.

 下流地域の脇往還で最も早く利用されたのは中原往還である.この往還は三田・桐ヶ谷・中延・下沼部に至り丸子の渡しを渡って,上丸子・小杉・上小田中・下小田中・新城・野川・久末(川崎市)を経て中原御殿(平塚市)付近で東海道に合する道である.家康・秀忠もこの道を放鷹を行いながら利用した.多摩川の南岸近く,往還沿いの小杉御殿は巡遊する際の休憩所で,1608年(慶長13)に仮御殿が建てられた.小杉御殿が正式の御殿となったのは1608年(寛永17)であるが,面積1万2,000坪で表・裏門の外に御馬屋敷・御蔵・御賄屋敷・御殿番屋敷などが並ぶ広大なものであった(参95).しかし,東海道の発達により,公用人馬が余り利用されなくなると,1660年(万治3)には取り壊し,移築されている(参96).

(3)小杉・溝口・登戸宿

 小杉村は1673年(寛文13)には宿駅が整備され旅人や商人荷物でにぎわったが,上半月が上宿,下半月が下宿で馬一疋,人夫2人の伝馬役も勤めていた.江戸後期の小杉宿には旅籠屋1軒,居酒屋3軒,髪結・湯屋各1軒,それに穀屋2軒,肥料屋3軒,材木商3軒が並んでいた.このうち材木商は多摩川上流からの筏によってくる材木を取り扱っていた.

 失倉沢往還は,1669年(寛文9)に溝口・二子両村が宿場に定められ,人足2人,馬一疋を備え,月の最初の20日間を溝口村,残りの10日間を二子村が勤めていた.溝口・二子宿は江戸後期には旅籠屋6軒,居酒屋4軒,煮売り・髪結各2軒,棒屋・鮎商・湯屋それに穀屋・太物(ふともの)屋・青物屋・鍋釜鉄瓶屋・経師屋が各1軒,豆腐屋・材木屋各2軒,荒物・瀬戸物屋4軒も並んでおり,宿場として活気が満ちていた.さらに津久井道の登戸宿では旅籠屋4軒,居酒屋13軒,煮売り8軒,それに穀屋・荒物屋・瀬戸物屋が各4軒,太物屋・古着屋・鍋釜・鉄瓶屋が各2軒,豆腐屋1軒となっていた(参97).このように多摩川の南岸に沿って点在する脇往還や道の宿場は,江戸の発達と商品流通や農村工業の活溌化に伴い,かなり活況がみられるようになり,東海道の補助的役割を果たしたといってよい.

(4)布田五宿

 多摩川の北岸には甲州街道の布田五宿がある.1602年(慶長7)に成立し,国領・下布田・上布田・下石原・上石原の5村が宿場に指定された.各宿に問屋場が置かれ,1月を6日交代で勤めた.1843年(天保14)には合わせて9軒の旅籠屋があった.宿場の周辺の農村は助郷役を課せられ負担が重かった.川崎宿では1694年(元禄7)助郷制度が成立すると,宿周辺の30ヵ村が大助郷に指定され,1725年(享保10)に定助郷と大助郷の区別が廃止されると川崎領16村,稲毛領14村,六郷領8村,合計38村に助郷役が一本化されることになった.また布田五宿も付近の26村に助郷役を課せられたが,1705年(宝永2)には小杉・溝口・二子・宿河原・登戸・中野島・万福寺・細山・坂戸・菅・上菅生・五反田・高石・黒川・明津の川崎市域の諸村も加助郷に当てられた(参98).このように,助郷役は多摩川を越えて下流の諸村に広く課せられたが,こうした例からも多摩川は交通量の増大に伴い,境界的な役割が次第に薄れていくようになった.



前のページに戻る 次のページを見る 目次に戻る 表紙に戻る 文頭に帰る
4.2 宿場と農村の生活