4.3 商品生産の展開と農村
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4.3 商品生産の展開と農村

4.3.1 新田開発と殖産興業

(1)多摩川と新田開発

 多摩川の流域の新田開発は,近世前期から行われている.それは洪水のため川欠地を補うためにも農民によって積極的に耕地の開発が進められたからである.北岸の世田谷地方では正保〜元禄期(1644〜1703)に開発を通じて多くの隷属農民が近世の本百姓に成長していった.しかも,村高の増加が主として畑作耕地の増加によっていることは,武蔵野台地に開発の可能な土地が多かったからである.こうした傾向は,慶安期において田と畑の割合が6対4であったのに対し,元禄期になると2対8の割合に逆転し.畑作経営が中心になっていることからも明らかである(参105).

 多摩川の南岸流域においては,まず1618年(元和4)に橘樹郡潮田村から下新田が開発され,1625年(寛永2)には大師河原村に続く寄州を開墾して稲荷新田(川崎市)が成立した.また1671年(寛文11)大師河原村で開かれた土地は,塩焼きを専門にしたことから塩浜新田と称した.このように前期の新田は多摩川下流の江戸湾に面した低地を中心に開発が行われたのである(参106).しかし中期になると幕府が享保改革の重要政策として新田開発を奨励したのを受けて,多摩丘陵の入会地である大野原の開墾による天真寺新田などが開発されている.この新田は江戸麻布の天真寺の住僧孝岳が,上菅生村内にあった入会地を買い取って開墾したのが始まりであるが,開墾後,1731年(享保16)に筧播磨守正舗の検地を受けて13町9畝27歩,野銭場8町6反歩が新田として成立した.この新田は天真寺が寺名を村名として管理したが,村内には農家がないため耕作は近燐の入作により行われ,村中の取締りは下菅生村の名主にゆだねられていた(参107).

 新田開発の結果は村高に反映されていくが,現在の川崎市域の場合は.『武蔵田園簿』によると市域の村数2町80ヵ村,総村高2万8,096石余であったが,1702年(元禄15)作成の『武蔵国郡郷帳』では4町81ヵ村,3万3,136石余,1834年(天保5)作成の『武蔵国郷帳』は4町83ヵ村,3万5,985石と増加し,村のうち100石以上の村高の増加を示しているのが13ヵ村にも及んでいる.このような村高の変化は,土地の開発や生産力の向上が要因となっているが,地域的には多摩川や二ヶ領用水の流域,あるいは多摩川下流の低地において継続的に行われたからである,そして,これとともに丘陵も次第に開発されていったのである(参108).

(2)池上新田の成立

 多摩川下流の低地で注目される新田は,大師河原村名主池上太郎左衛門幸豊か開発した池上新田である.幸豊は1753年(宝暦3)に大師河原村,川中島村,大島村,稲荷新田の地先付州と海辺干上り地における新田開発の許可を得て,1756年(宝暦6)から1759年(宝暦9)にかけて総費用767両を要して実施した.開発された池上新田は1762年(宝暦12)に関東郡代伊奈忠宥の検地を受け,村高23石2斗6升4合,総反別14町5反21歩の新田として成立した.この池上新田は開発請負人である池上幸豊1人の名請けであるが,開発の際に労働力を提供した新田の開発割請人219名は,幸豊と新たに永小作関係を結び新田内で漁獲や製塩に従事した.

 地上幸豊は,池上新田開村後,幕府の命によって荏原郡から久良岐郡に至る海辺の新田見立のため回村し,さらに橘樹・都筑・多摩郡の開発地見立を行っている.このように幸豊が多摩川流域の新田開発の促進に果たした役割は極めて大きい.そして自ら幕府に対して「為政者は,開発者に対して欲と名分を与えるべきである.欲とは新田成立後その十分の一を開発者に給付すること,名分とは50町歩以上の開発者には帯刀を許すべきである」と意見書を提出し,それが採用されている.幸豊の遠大な新田開発計画は,池上家の遺法に基づくものであったが,幸豊はその後1774年(安永3)に病を理由に新田世話役を辞退し,一切の見立開発の事業から退いている(参109).

(3)池上幸豊と殖産興業

 池上幸豊は新田開発の他,甘蔗の栽培,氷砂糖の製造,果樹・人参栽培,製塩・養魚・蓆製作・芒硝(火薬の原料)製造などの殖産興業の発達に努めている.特にそのうち国益につながる事業として,砂糖の国産化に努力している.まず甘蔗栽培による和製砂糖の製造に力を尽くしているが,1766年(明和3)には,関東郡代より川崎・稲毛・神奈川領の天領に甘蔗栽培の布令が出され,川崎市域の堀ノ内・川崎宿・登戸・上作延・下作延・上平間・上丸子・小杉・上小田中・井田・宮内・北見方・二子・久地その他に甘蔗苗が配布されている.何度かの失敗もあったが,製糖事業は次第に軌道にのるようになり,自らも武蔵・下総・常陸・下野などに回村して甘蔗の増殖と製糖法の伝法に努めた.その結果,和製砂糖が輸入砂糖を圧倒するようになり,また,1796年(寛政8)には氷砂糖の製造にも成功している(参110).

 製塩業は,1669年(寛文9)に叶栄雲と泉市右衛門が大師河原村地先で塩田を開いたのが始まりというが(参111),製塩業を営む村は大師河原村を中心に川中島・稲荷新田・小田・池上新田などに広がった.塩田で採取した鹹水を煮つめて塩を作る設備である塩釜屋が,1765〜66年(明和2〜3)には塩浜新田に18軒,池上新田に5軒,稲荷新田に2軒,大島村1軒,深谷新田7軒もあった(参112).これらの地域の塩は,抱塩と称して苦塩を含んだ良質のものではなく,江戸市中では豆腐の凝固用,魚屋のたて塩に主として使われた.



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