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(1)多摩川の筏宿
多摩川は氾濫が起きないときには,重要な水運の幹線になっていた.また多摩川の分水によって1611年(慶長16)開削された北岸の六郷用水と南岸の二ケ領用水は,流域の農民の生活に灌漑,飲料用水の供給源として大きな影響を与えた.ところで,多摩川の上流の青梅や秋川筋・八王子方面からは筏や舟によって木材や竹材,穀類が川を下ってきたが,流域諸村の物資も舟で江戸に送られていた.特に年貢米はこの水運によって江戸浅草の蔵前に輸送されることが多かった.
多摩川の筏流しは,江戸前期に始まり,中期以降に主として行われ,幕末から明治30年代にかけて最盛期を迎えたといわれる.筏流しの中継地として登戸宿が栄えたが,ここには筏宿もあった.筏宿は江戸地回り経済圏の形成に伴って生まれた筏屋または筏積問屋と呼ばれた木材廻漕問屋である.筏宿は筏師の宿泊所の他,手板(材木の寸面の査定を明細に記したもの)の作成,運上金上納の立会人,材木船への斡旋などを稼業としているため,村の名主や富裕な農家が世襲的に経営していた.1774年(安永3)幕府は筏1枚につき8文宛の運上金を課し,登戸の堰の通過のときに取り立て,代官所へ上納している.このころ,多摩川の河口の八幡塚村に3軒,羽田獵師町に2軒の筏宿があった(参117).
(2)砂利採取
多摩川の流域の諸村では,河原の砂利を採取して,これを江戸で売りさばいていた.つまり江戸後期になると多摩川の砂利が商品化されていたのである.文化4年(1807)に橘樹郡小杉・上丸子・上平間・小向村と対岸の下沼部・下丸子・矢口・古市場・高畑村の計9カ村が江戸深川の砂利屋七左衛門との間で多摩川砂利の採掘・売りさばきについての取決めを行なっている.それによると採掘は村側で請け負い,売捌きと運上の納めについては七左衛門と村で請け負っている.そして,収益の中から回船,船積み,採掘手間賃の支払い分など世話役に支給し,残りは世話役を勤めた村の収入となり,自普請の手当てなどに当てるように定めている(参118).また,多摩川の河原の砂利は,このように諸村の収益になったが,これが災害復興の基金としても重要な役割を果たしたのである.