1.1 横浜開港
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第4章 近代

第1節 ペリー来航と多摩

1.1 横浜開港

(1)破られた鎖国

 アメリカ東印度艦隊司令長官マシュウ・ガルブライス・ペリー(Matthew Galbraith Perry)率いる4隻の軍艦が,江戸湾の入口に当たる浦賀沖に碇泊したのは,1853年(嘉永6)6月3日であった.ペリー渡航の目的は,アメリカ大統領フィルモア(Fillmore)の国書を,徳川幕府に受領させ,来るべき時期に日本を開国させることにあった.今回は,7年前の1846年(弘化3),ビッドル(Biddor)提督が日本に通商の意志があるかどうかの打診をしてきたときと違って,非常に強硬な姿勢をもって来航した様子がペリーにうかがわれた.それは,アメリカにとって日本の開国が必要不可決のものであったからであった.

 1783年(天明3)に独立したアメリカ合衆国は,急速な資本主義発展をみせ,ヨーロッパに遅れた商品市場の獲得のためには,清国は重大な関心を持つところとなっていた.さらに捕鯨業が盛んになるにつれ,太平洋上での活躍の関係上,捕鯨船の寄港地としての日本は重要な地域であった.アメリカにとって東洋への進出の足掛かりは,日本の開国にあったといってよいだろう.ペリーの強硬な態度に,この艦隊を力でもって退去させることのできなかった幕府は,久里浜における国書の受領が一応妥当な策であった.ペリーは来春に再来日する旨を幕府に伝え,江戸湾を退去したのである.

 約束したとおり,ペリーは翌54年(安政元)1月来日した.しかも今度は7隻の艦隊をもって,さらに強硬な姿勢を示すかのように江戸湾に深く侵入したのである.幕府はアメリカの力による開国要求に屈せざるを得なかった.ついに3月3日,横浜において日米和親条約12カ条の調印を行った.こうして幕府は1637年(寛永14)の鎖国令以来,実に217年に及ぶ祖法として堅持してきた鎖国政策に終止符を打ったのである。

(2)開国による民衆の反応

 「『黒船来る』ということばが私の中にどんな恐怖をよび起したか,私は覚えている.『黒船来る』の知らせは私の生まれるずっと以前から国中に伝わっていたが,私の子供時代でさえも,人々はこのことばを国に降りかかった災難の同義語として使っていた(参1).

 1859年(安政6)生れの片山潜は,ペリー来航の恐怖をこのように語っている.確かに巨大な軍艦の威力は,渡来後10年以上たったにもかかわらず,江戸から百数十里離れた美作(みまさか)(現在の岡山県)の一孤村の農民たちをも恐れさせるに十分のものであった.

 ましてや黒船渡来直後の日本は大変な騒ぎであった.うわさは日をおかずして信州は木曽の山中にまで伝播している.島崎藤村はこのときの状況を『夜明け前』の中で次のように描写している.「江戸から八十三里の余も隔たった木曽の山の中に住んで,鎖国以来の長い眠りを眠りつづけて来たものは,亜米利加(アメリカ)のやうな異国の存在すら初めて知るくらゐの」村々にさえ知れ渡っていたと.確かに黒船渡来の現実は,2世紀余にわたる長い鎖国の惰眠をむさぼっていた日本に及ぼした影響は少なくなかった.しかもこの衝撃は単に支配者層だけのものでなかったことに重大な意味がある.開国による西欧ショックは豪農層の間にも深甚なナショナリズムを呼び起こしたのである.

 武蔵国西多摩郡深沢村(現在の東京都西多摩郡五日市町)の豪農清水左衛門(清水家は明治以降深沢姓に改姓する)も強くショックを受けた一人であった.かれはペリー来航後,それほど日はたっていないであろうある日,浦賀まで出掛けていき,黒船の絵をスケッチしてきた.当時一般人の浦賀出入りは厳しく規制され,「今般異国船渡来……見物はもちろん彼の方角に要用これあり候者も遠慮致すべく候」(参2)といった触れ書きが周辺の村々に出されていた中をである.

 左衛門が生まれた五日市は,江戸日本橋より12里(48km),四面を山に囲まれた「山間幽邃の地なるにより行路難」(参3)い山峡の僻村である.深沢は,その五日市よりさらに北西に1里ほど入った,地名のとおりの狭間の村である.こうした農民や地方知識人の反応は他にも多くみられる.

 武州南多摩郡小野路村(東京都町田市)の小島為政は「嘉永安政の際より海内沸然の世に当り,公務麻の如く専念,学の親しむ余暇なきを以て毎夜鶏鳴まで燈火に坐し」(参4)時代の変遷に目を凝してみつめていた.そしてペリーショックの体験を,次の一詩に託した.「未だ神風敢て一吹を試みず 刀槍沿岸軍威を示す 酒仙管せず防辺の事 孤艇揺々酔を載せて帰る」と.

 岩代(いわしろ)国伊達郡金原田村(現在の福島県伊達郡保原町)の農民管野八郎は,1854年(安政元)2月,前年のペリー浦賀入港に深く憂慮していたが,ついに逸(はや)る心を抑えることができず,草深い東北の一寒村から神奈川にやってきたのである.彼の見たものは,西洋文明の威力を十二分に装備した異国船の姿であった.彼はそのときのショックを『あめの夜の夢咄し』に次のように述べている.

 二月十一日,金川(神奈川)へ行て見るに,山の如き異国船八鑑あり.何れも帆柱三本づつ,其帆柱之高き事,近海岸の山よりよほど高ふして,そらをつらぬく歟とうたがわれ,大砲を打ち放す事度々也.其音天つ地にひびき,百らいのげきするごとくにして,近辺の老児は家外へ出る事不叶,家の内にひれふして,むしろをつかむ老人,へそをかかえる児あり,みみをふさぐ女子もあり(参5).

 菅野八郎は,さらにその中で「近くは三ヶ月歟三ヶ年,遠くは三拾ヶ年歟三百年之間に,異国之夷,予が国を犯んとす」として,迫り来る欧米列強の侵略に強い危機感を示した.そして世界地図や,ペリーの似顔絵を模写して人々に視野の拡大を求めたのである.

 武蔵総社六所官(現在の東京都府中市にある大国魂社社)の神官,猿渡容盛(さわたりひろもり)もペリーショックを受けた一人であった.小山田与清に師事し,平田篤胤にも学んだといわれる,多摩では代表的な国学者であり,地方文化人であった.容盛は1858年(安政5)2月,老中堀田正睦(まさよし)が,天皇に日米修好通商条約の勅許を求めて入洛したことに強い衝撃を受け,約2万字に及ぶ膨大な字句を連ねた「建言書」を書き上げていく.

 「建言書」は,「ペリー来航以来今日,国家の大事に致っては草莽の遊民である容盛ですら憂患病みがたい状態にある,じっと座して時代を静観するにしのびず,ここに建言書を上申せざるを得ない」(参6)といった危機感に全文が貫かれている.しかし,そこには国学者特有の極端な攘夷思想に凝り固まった閉鎖的なものはない.

 「東照宮御代の頃(徳川家康の時代)とは雲泥の相違にて,蒸気船発明以来万里の波濤を暫時に往来仕り,兵馬の調練砲銃の窮理等日々夜々研究仕し,邪慾を逞して諸州を併呑仕り候義,彼等平日の所業にこれ有」る状態では開港も今日においてはやむを得ない,といった柔軟性すら持ち合わせている.また,開港後は外交をはじめとして諸外国の文物の流入が考えられるが,交流に際しての条約,通信,交易,武備,国体,キリスト教,仏教等の諸条件において,日本が主張すべきことを貫いたうえで対等にかつ国威を損することなく対すべきと述べている.

 全体としては神官らしい性格を随所に出しながらも,例えば国際情勢の把握などは,アヘン戦争によるイギリスと清国の関係などが明確に捕らえられているし,また,キリスト教などに対しては「耶蘇宗の義は元来御厳禁之事に候へば,其道之書籍とて世上ニ流布も不仕候間,いかなる教法ニ御座候哉,容盛更ニ相弁へ申さず候只先年職方外記と申す書を渉獵仕候処,耶蘇の義少々書顕しこれ有り,始めて其大体を承知仕り候而巳ニ御坐候,其大体ハ仏法ニさして替りもこれ無く相見え候」といった認識で,なかなか開明的な思想すら感じさせる(参7).

 このように地方知識人や農民たちの心を激しく揺り動かしたものは一体何であったのか.清水左衛門は安政の五カ国条約ならびに貿易章程の写しを手にしていた.1858年(安政5)の6月から9月にかけて,幕府とアメリカ,オランダ,ロシア,イギリス,フランスの列強5カ国との間に締結された修好通商条約の写しをである.関東は,養蚕,茶の生産地帯として中部,東北とともに,横浜の開港によって最も大きな影響を受ける地域である.そのことが左衛門に条約文を写させたと考えてよいだろう.

 そこには,開国による欧米との新たな接触,不平等条約の締結によって日本に見舞われるであろう国家的危機を感じたからである.つまり開国は,欧米列強が日本を世界市場形成の最後の一環として侵略し,激しい収奪の嵐を吹きこむのが必然であった.したがってこの現実は,確実に変貌を余儀なくされる生産者たる農民層に,かかる事態を経済的危機として受け止めさせたのである.すなわち,かれらは幕末の危機状態と,開国後に起こり得る激動の時代を予知する能力を養っていた.このように激動と緊張の時代の変化に対応しつつ,鋭く反応し得る豪農層や地方知識人の意識の土台には,分厚い知識の集積があったと考えられる.そのひとつには,伝統的な都市文化を受容し,各自地方の社会的条件に即して変容させ,さらに自生的なものへと発展させるだけの主体的条件を彼らが手にしていたからであった.こうした彼らの開明性,時代への対応性は,どういった条件下で醸成されてきたのか,少しくながめていってみたい.

(3)遊歴する都市知識人

 江戸後期の代表的な農政学者で,農業生産の合理化を説き,村政改革などに尽力していた大原幽学などは,日本各地を頻繁に遊歴しているが,その足跡をみると,ほとんど各村の豪農や町場の豪商層の家を中心に旅をしていたといわれる.また幕末期,海防論をとなえ,幕府の対外政策を批判して,『慎機論』を著わした開明的な思想家,渡辺華山なども,江戸滞在中はよく多摩を遊歴したといわれる.華山は画家としても有名であり,遠近法を採り入れた山水画に優れた作品を残していることなどから,多摩の自然を愛したのであるあろう.この華山が五日市を訪れたときも,阿伎留(あきる)神社に滞在し,つい最近までそのときにかき残した一幅の絵が所蔵されていた.また,華山の師匠でもあった,谷文晁も多摩川の自然にひかれ,狛江に遊歴十数幅の絵を残している.

 こういった例は他に多く散見できるが,一例として挙げるならば,1968年(昭和43)10月,東京経済大学の色川研究室が五日市町深沢の深沢家史料調査を行ったとき,土蔵から百数十本に及ぶ掛軸を発見したことがある.その多くは腐食がひどく焼却したが,明らかに,当時遊歴していた知識人たちが,滞在した礼として書き残していった書画であった.すなわち,地方名望家層にとって精神的発達をとげるには,文人墨客,都市知識人との接触が欠かせない要素となっていた.片山潜が語るように,そこには,当時地方名望家層が,文化人との接触によって成長する姿がよく描がかれている.

 「私の小さいころ,私の家にいろいろの人が立ちより,泊ったり,援助を求めたりした.これは私の家が庄屋であり,庄屋は村の長として旅人をもてなし,援助を与える義務があったからである.……どんな旅人でも……村の庄屋にやってきて助力を得ることができた.旅人にはありとあらゆる職業の人間がいた.絵かき,歌よみ,俳諧師,剣道,柔術指南などもあって,国から国へと渡り歩き技をみがいた.そのなかには,全国に名を知られ,歴史に名を残した人々も少なくなかった.絵かきは金持の家に立ちよって絵をかき若干の路銀を受け,旅をつづけた.……彼らは放浪している間に見たり聞いたりしたことを話して」(参7)くれたと.

(4)豪農層の生活と意識

 北村透谷の人間形成,思想創造に深い影響を与えた人物に南多摩郡川口村の豪農秋山国三郎がいる.彼の人となりは北村透谷「三日幻境」に詳しく描かれているが,色川大吉は秋山の人間性を次のように述べている.

 「自由,飄遊,風雅を愛し,反俗,反権力,反欧化をつらぬき,維新の動乱期から今日にかけて,『死地に陥りしこと数を知らず』,しかも伝統文化(「徳川氏時代の平民文化」)のよきいみでの実行者,伝承者であり,大地と歴史の上にがっちりと密着していた気骨あるひとりの日本人としての秋山国三郎,しかも時代遅れや反動に堕しなかった稀有の人間」(参8)であったと.

 上州島村の田島弥平も豪農として大変ユニークな存在である.

 「聞く弥平氏(二代目)の父は養蚕長者の名あり,諸方を遊歴して養蚕の得失を窮め桑園を島村新地に開き……遂に養蚕新論二巻を著はし,為めに古来の謬説を破り世間の養蚕法を一変するに至る.至して,一昨年(1879年<明治12>)再び見る所を述べて続養蚕新論三巻を著はし,之を世に公にせり.弥平氏は……一昨年蚕卵紙直輸出の説を主張して遂に……伊大利に航し,欧米諸国を遊歴して帰郷せり.其の談ずる所激昂にして聞く可し.島村の富饒を致せしは弥平氏が養蚕法発明の力に出るもの多し」(参9

 ここには,農民的感覚によって商品発展を求め,西欧の養蚕の実態を自らの目で確かめるために,独力で明治の初めに渡欧,そこから村の生産にヒントを得ようとする,積極的な篤農家の姿をみることができる.

 以上のように反骨,反俗,開明性の精神を持ち,しかも伝統的教養と,深い人間性を持ち合わせた豪農の存在が,「村の維新」,「村の開化」を呼び起こしていく原動力となったといえる.そして彼ら豪農層が,各村々にがっちりと根を下ろし民衆のエネルギーを絶えずくみ上げ,それを文化的,政治的創造力として噴出させていったところに幕末から明治の自由民権運動に至るまでの社会のダイナミズムがあったといえよう.

 ここでもう一人の豪農に登場してもらおう.南多摩郡野津田村の石坂高之助(後に南多摩自由民権運動の領袖として活躍する石坂昌孝の幼名)がそれである.彼は,16歳で養父昌吉から名主として野津田村惣高822石余の差配と,家長として石坂家127石余の経営,さらに隣村小野路寄場組合の大総代として34力村の統轄権を任されることになった.殊に昌吉はなかなかの才能を持った人物として村人の信頼は厚かった.その意味でも高之助の村の差配は大変であったといえよう.

 高之助の名主としての能力は,次の事件によって試されることになる.1868年(慶応4),神奈川,保土ヶ谷両宿に,助郷肩替賃銀差し出しの命令が野津田村に出された.しかし,数年来の農民の疲弊を見ていた高之助は,村人保護に敢然と立ち上がった.そのため1年の宿預りの罪に処せられたという.だが,この高之助の行動は確実に村民の心を捕らえることに成功,この事件以来,養父昌吉の後継者としての地位を確立したのであった.

 さて,この石坂家は江戸中期以来のたゆみない勤労と質素・倹約によって財産を蓄積したといわれる.その点でも,つましさ,質素さが家風としての条件であったらしい「昌孝さんのところの女中を三年つとめれば,どの家の嫁になってもつとまった」,「昌孝さんの家はお客さんが多く,お客さんがくるとかならず酒をだして大ふるまいをしました.しかし,普段の生活は質素でした」.こうした語り伝えは,石坂の生活,ひいては豪農一般の生活をよく表しているといえよう.

 小野路村の豪農小島為政は次のようなことを述べている.「子孫に教えて曰く,我家世々農を業とし吾儕の温飽皆祖宗の遺沢なり,一日も之を忘るべからず.倹素は宜しく尚ぶべし,倹より奢に入るは易く,奢より儉に入るは難し,余財あらは宜しく施すべし,富て施すを知らざる之を愚と謂ふ.施して儀に当らざる其愚たる一也と歳首毎に年計簿を作りて先塋に詣で拝位して之を捧げること生けるに事ふるが如し」(参10).ここには豪農の生活倫理がよく説かれているが,石坂高之助の生活実感もこうした思想によって意識づけられていったであろう.

(5)和漢の書約六千冊

 ともあれ,高之助のこういった儉素な生活の反面,文化的教養を高めるためには,その財を惜しみなく使ったらしい.当時石坂家には蔵書1,000冊が備え付けられてあったという.そこには彼らの思想的成長をうらずけるかのように,うず高く積まれた膨大な書籍を見ることができる.小島家にも「和漢の書約六千冊」が蔵せられていたという.多くの書籍の中でも和歌・漢詩・俳句・書画・国文学・漢文学・能などの本が多く,明治に入ると政治・憲法・法律・経済といった飜訳本がさらに加えられていく.

 五日市の深沢名生の蔵にも膨大な書籍が所有されていた.その量も,明治に入ってからさらに増加し「凡ソ東京ニテ出版スル新刊の書籍ハ悉(ことごく)ク之ヲ購求シテ書庫ニ蔵シ居リタリ」(参11)といわれるような一大私設図書館が山村の中に誕生していた.この書籍は,やがて明治10年代の自由民権運動の昂揚とともに,この地の人びとの手によって憲法起草という決挙がなし遂げられるが,その土台となっていったわけである.

 高之助は漢詩を平塚梅花に,書を真下晩菘(ばんすう)に,俳句を森田友昇,詩を大沼枕山(ちんざん)といった幕末から明治にかけて活躍した学者,文人に学んでいった.ここにも,高之助の豪農としての生き方をみることができよう.

 このような豪農層の生き方が促された土台には,今まで支配者階級の独占的所有物となってきた学問や文化的教養を掌中にすることができるだけの経済的余裕があった.石坂高之助,小島為政,深沢名生らは,この経済力を手にしたことから豪農としての精神的発達をみたといってもよい.幕府が「学問というものは,百姓町人には堅く禁ずべきもの,本業の妨げとなること少なからず,穀つぶしというものにて遊民にひとしく国家の賊なり」(参12)と,農民の文化的向上を抑圧,それによって,租税の完納に専心させようとした封建支配の原理はかれらの経済的成長によって,末端から崩壊したということができよう.そこで次に,豪農層の経済的成長過程をみていこう,

(6)豪農層の経済基盤

 1841年(天保12),老中水野忠邦の行った「天保改革」は幕府支配の基礎を立て直すために改革としてはその最たるものであった.特にこの改革における幕府の目的のひとつには,享保,寛政両改革への復帰があった.そこで,農民の都市流入を抑えかつ,連年の凶作に続いて起こる農民一揆や逃散などによって荒廃した村を立て直し,強制的な「人返し」などを行って農民を統制する政策を急いだ.しかし,封建社会全体の退廃はいかんともし難く,幕府支配を再強化するためのカンフル剤とはなり得なかった.逆にこうした封建社会の弛緩は農民に一大転機をもたらすこととなった.

 今までの厳しい統制によって土地に緊縛されていた農民は,農業生産の向上と,余剰生産物の商品化=商品生産の本格的流通によって「主穀生産者」から「商品生産者」へと転換していった.さらに,その中から成長してきた新興の地主層が,村落においては新しい型の実権者として抬頭してきたのである.

 五日市は西多摩郡中青梅町につぐ小都会なり(中略).五日市の名は黒八丈と共に其名高し.しかして,同市における黒八丈と並称せらるるものは,実に豪農家としての君(内山安兵衛)なりとす……九曲たる山路行く処として路傍蓊鬱たる桧杉の喬木を以て掩はるるを,しかして,此の山林の多くは君の所有として君が西多摩郡否三多摩郡の唯一の富豪たるを証拠立つものなり.吁(ああ)太陽の没すること知らずとは世界の雄国なる英国の版図の大なるを形容したるものならずや……君が管理の山林の大なるを形容するものならん.

 これは『三多摩人物評』に書かれた五日市最大の豪農内山安兵衛家の明治20年代の経済力を示したものである.この家の,地租改正時の所有地面積を「田畑其外反別地価表」(五日市村外10力村と伊奈のみ)で計算すると,山林95町1反1畝27歩,田畑宅地16町1反7畝16歩(田畑宅地の地価金4,038円79銭)(参13)という膨大なものであった.内山家はこの財力を基礎として,西多摩郡中に並ぶものなき勢力を顕示していた.

 この経済力は自由民権運動期には「内山梁山泊」と呼ばれる民権の一大牙城を形成し,内山安兵衛は西多摩民権運動の領袖として活躍,他に多くの優れた民権家を輩出する基盤をも担っていた.内山家がこのような厖大な蓄財を成し遂げるに至った経済的条件は,一体何が基盤であったのだろうか.

 当時,五日市はその名のように,五の日が開市であった.開設は1653年(承応2)であるとされている.この市は,村の真中を貫く江戸道(後の五日市街道)の両側の空地に露店を開き,山方から来る炭売人の炭と,その炭売人の仕入れる里の穀物を中心的商品として取引きする形態を採っていた.その後江戸中期以降になると,この市の動きは,消費都市江戸の経済圏に巻き込まれることによってより活発化した.

 市の形態が右のようであったから,次第に市庭を貸与する農民の中に市開催時の「市庭権」が重要な権利要求となっていったらしい.彼ら五日市の農民は,初めは市庭貸与を通じて生産者の山方荷主と里方の買人との間を斡旋したり,荷の売却の代行をしたりすることもあった.また,山方荷主の求める商品を販売したり,生産者の炭売人の宿を提供したりする,いわゆる「宿」の機能をも果たしていた.

 その後,農民たちは「市庭権」を確立することによって開催権も独占するまでに発展した.さらにこうした権利を握った農民は,山方の生産者と里方の穀物商人との自由取引きに割り込み,紛争の種をまいていったが,ついに穀物の売却の独占化をねらって穀座設定の運動を起こした.しかし,炭の直接生産者である山方側の強い反対に遭い,穀座設定は成功を見なかった(参14).

 内山家が経済的成長を遂げたのは,正にこの五日市の農村経済が市を通じて発展流動する時期であった.「市庭権」獲得によって蓄財を成していく過程にあった内山家が,さらに巨額の財を蓄えたのは炭の売買とともに,黒八丈織の商いにも手を出し,遠くは京都方面にまでも取引きを拡張させたからだといわれる.それが成功し,そこから莫大な利益を上げていった.その後,代々の安兵衛は,山林,田畑の集積をはじめ,また一方では質屋を経営して,幕末には寄生地主として五日市村にその地位を確固たらしめたのである.

 以上みたように,条件の差こそあれ,この内山家の資本蓄積のプロセスは,幕末期にみられた豪農層の一般的傾向であった.



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