2.2 新政府の諸改革と三多摩
前のページに戻る 次のページを見る 目次に戻る 表紙に戻る

2.2.2 村の開化

(1)生活の変化

 村の文明開花は,まず,教育の面で現れた.それは後節でみるであろう.確かに,開化されていく村は活気付いていた.1872年(明治5),複雑な身分制度は,華族,士族,平民に単純化され,その間に平民に苗字(みょうじ)を名乗ることを許可,1870年,華族,平民間の結婚を許可,穢多(えた),非人(ひにん)の称の廃止,田畑勝手作(でんぱたかってつくり)の許可,1871年職業の自由選択の許可,新戸籍法,土地売買の自由,学制の頒布(1872年)など,維新の大改革の前に日本の村々は揺れ動いていった.

 生活における時間的な単位の変化も影響を与えたひとつである.江戸時代以来の時間感覚は,一時(いっとき)(現在の約2時間)を単位して,昼(日の出から日没まで)と夜(日没から日の出まで)を6つに刻んできた.四半時(しはんとき)(約30分)が生活のリズムを刻む時間の最小であった.それが,1日を24に刻み,時・分・秒の単位までが生活の中に溶け込んできた.

 さらに,1872年(明治5)12月3日が1873年(明治6)1月1日となって,過去1,300年の長きにわたって生活に密着していた暦を,太陽暦に改めたのである.新暦のリズムは村に大きな影響を与えた.今までの暦は月の運行を基準とした太陰暦で,602年(推古10)中国から伝えられたものを正式に採用,日本の気候風土に合った国暦に変えられ,農業生産と密接に結び付いた日本人の生活に深く根を下ろしたものであった.草取り・稲刈り,そして豊饒(ほうじょう)と収穫を祈り,祝う祭りなどは,旧暦のリズムで行われていた.それが上からの資本主義の発達を押し進める明治政府の,欧化主義の前にいやおうなく改変されていったのである.

(2)キリスト教の移入

 また,キリスト教の浸透も村に与えた影響の見逃がせないひとつであった.キリスト教布教の土台は,1858年(安政5)日米修好通商条約第8条によって決められたのであった.「日本に在る亜米利加人,自ら其国の宗法を念し,礼拝堂を居留場の内に置も障りなし,並に其建物を破壊し,亜米利加人宗法を自ら念するを妨る事なし,亜米利加人,日本人の堂営を毀傷する事なく,又決して日本神仏の礼拝を妨げ,神体仏像を毀る事あるへからず,双方人民互に宗旨に付ての争論あるへからず,日本長崎役所に於て踏絵の仕来は既に廃せり(参24)」当然その後のオランダ,ロシア,イギリス,フランスとも同様な調印がなされた.

 しかし,第8条の条文は,在日各国の外人の信仰の自由を認めたものであって,決して日本人に対する布教を認めたものではなかった.それでもこのことを待ち望んでいた各国宣教師は,早速来日,居留地内と限定付きではあったが,公然と礼拝を開始していった.この後横浜は熊本,札幌とともにキリスト教の拠点となり,横浜バンドは多摩一帯に大きな影響を与えていく.

 徳川政権を引き継いだ明治新政府は,キリスト教の日本進出に危機感を抱き,幕府の政策を踏襲して禁教,弾圧を行った.しかし西欧諸国との外交を発展させるためには,キリスト教の解禁が重要な課題であった.ついに1873年(明治6)キリスト教は解禁されたのである.

 さて,多摩地方においては,開港以来,シルク・ロード(絹の道)を通じて早くからキリスト教の流入がみられた.プロテスタントは長崎・神奈川でひそかに開始され1859年(安政6)ジェイムス・ヘボン(James curtis Hepburn)は医師として神奈川で治療する傍らキリスト教を説いていた.1873年10月,府中に2人の日本人キリスト教徒が伝道に来た.小川義綏(よしやす)と奥野昌綱(まさつな)であった.小川は府中の分梅の農家に生まれた青年で22歳のとき横浜に出て,アメリカ人宣教師タムソン(Thamsun)の日本語教師となり,傍ら旧約聖書の翻訳に当たっていた.1869年(明治2)洗礼を受け,敬虔なプロテスタントとして布教に専念していたという.情熱をもって説教を行う彼らの布教は村民の心を強くった.そこには神の前における人間の平等・自由が強く説かれていたからである.涙を流して小川らの説教に聞きいる村民の姿をみた大国魂神社の神官猿渡盛孝(さわたりもりたか)は,その顛末を「此ノ景況ヲ見テ察スルニ,日ナラスシテ郷民彼ノ教に傾カン事必セリ」と横浜御説教所に報告している(参25).この後,プロテスタントは奥多摩の氷川(現在の奥多摩町)から東へ1里ほど入った海沢(うなざわ)にも明治10年代にはいったといわれる.今日ではその面影も残っていないが,しかし,山深い山村の青年たちが西欧文明の息吹きを一杯持ったキリスト教にあこがれを抱き,厳しい弾圧と偏見を打ち払いながら真摯に信仰を求めた姿はなかなか感動的である.

 キリスト教の説く神の前における人間の平等は,江戸時代以来いわれなき差別によって苦しむ人々の心を強く打つものがあった.八王子の被差別部落に生まれた青年山上卓樹(たくじゅ),山口重兵衛もその一人であった.山上は明治初年,東京で中村敬宇(けいう)の同人社で学んだインテリでもある.山上はしばしば商用で横浜に赴く機会があったが,ある日彼らがそこで触れたものはキリスト教であった.1876年(明治9)のことである.山上,山口の二人は横浜でカトリックの洗礼を受け,早速村に帰るや,差別に苦しむ村人に神の恩恵を説くと同時に横浜から神父を招き,布教を開始した.村での反応は「一タビ其教理ノ講演ヲ試ミルヤ,聴衆ハ雲ノ如ク集り忽チニシテ志願者以テ簇出」(参26)したといわれる.カトリック教は1858年(安政5)日仏通商条約に伴い,ジラール(Girar)神父が来日,横浜に「ヤソ寺」を建てたのは1862年(文久2)であった.続いて1865年(慶応元)長崎大浦に天主堂が建てられていく.

 当然こうした動きを官憲は見過ごすはずはなかった.「時ノ神奈川県庁ヨリハ吏員ヲ派シ又ハ大区ニ命ジテ其先進者ヲ譴責シ,或ハ警吏ヲ臨監セシムル等大方之レガ防過ニ努メ」ようとしたが,村人たちは「毫(すこし)モ屈スル所ナク反テ吾ヨリハ其圧迫ニ抗シ又ハ哄ヲ以テ之レニ酬ヒ聊カ躊躇(ちゅうちょ)逡巡スル所ナク」(参27)官憲に立ち向かっていった.こうした勢いは燎原の火のように広まり,五日市に,拝島に,埼玉県の宮寺へと民衆の心を捕らえていったのである.そして1878年(明治11)10月,山上,山口の努力は実り,村に教会堂「聖利亜(セントマリヤ)教会」が完成した.

 開堂式には横浜からオスーフ(Plerre Marie Osouf)大司教も出席し,会堂の鐘楼にはテストヴイド(Testviit)神父の寄贈による鐘が据え付けられた.この鐘はフランス革命ゆかりのもので,差別と偏見によって苦しんできた民衆を解放するかのように,今日に至るまで多摩の丘陵に鳴り響いている.山上卓樹,山口重兵衛の二人は,この後自由民権運動の中でさらに自由と平等を求めて活躍していく.

 ギリシャ正教会は,ロシア人ニコライ(Иоан Амитрович касткин Николай)が1861年(文久2)箱館に来日,ロシア領事館に付属しているガンガン寺(エキゾチックな響きで鳴る鐘の音からそう呼ばれていた)と呼ばれる正教会の聖堂に入って布教を開始した.多摩ではカトリックと並んで早くから八王子に浸透していた.沼謙吉の研究によると,1880年には八王子正教会が設立され,司祭パウエル佐藤を中心に信者66名を教えるに至っていたという(参28).

 その影響は五日市地方にも及び,同時期には軍道(ぐんどう)村にも教会が建てられ,ここを拠点として多くの青年・少女の信仰とともに,西洋の思想が導入されていった.あの五日市憲法起草者の千葉卓三郎も,また五日市勧能学校初代校長永沼織之丞(ともに仙台人)もギリシャ正教会の信者であった.

 1883年,大主教ニコライが八王子を歴訪した.このとき説教を聞いた八王子の14歳の少年,瀬沼恪三郎(せぬまかくさぶろう)は大いに感激し,家出をして神田お茶の水ニコライ神学校に入学したという.

 後に瀬沼はロシアに留学し,帰国後は神学校で教鞭を執る傍ら,日本で最初にトルストイ(Алексεй Констан тинович Толстой)の『アンナ・カレーニーナ』を翻訳した(参29).このように江戸時代以来の鎖国の停滞性を突き破った西欧文明の新風は,日本の農山村の深部まで吹き込むことになったことは疑いなかった.

(3)文明開化と農村

 だが,この胎動によってすぐ村々の生活様式までが急変したものではない.日本の多くの村は旧態依然とした生活形態を維持していた.そこで典型的な例を南多摩郡連光寺村(現在の多摩市)の富沢家にみてみよう.ここには,生活物資の流入に即して文明開化度,生活実態がよく捕らえられている.

 『明治三庚午正月日金銀収放日誌帳富沢』と題された富沢家の家計簿の内容を見ると,1870年(明治3)では,西洋からの輸入品および新しい文明品といわれるものの使用は,ほとんど見られない.まずランプ・石油の使用は全然見られず,マッチすら全く使われていない.

 日本にランプの入ったのは,安政の開国以後のことである.1899年(明治32)8月『時事新報』の越後石油の記事の中に「外国よりランプの輸入するあり.東京,横浜の如きは,之を用ふる者漸次に増加し,越後地方にもポツポツ之を用ふる者あり」とその利用はかなり遅い.

 燈火用としては,水油・ろうそくが使用され,水油が年間3斗3合以上(代金約17両)と多量に使われていた.ろうそくの消費は少なく,年間約350丁(2両3分600文)であった.かろうじて「しょうのう(400文)とシャボン(石鹸)1本(1朱)が文明品として購入された」ことが記されているだけであった.

 1880年に入るとこの状態は少し変わり,ようやくランプ・石油が使用され始めたが,それでも驚くほど僅少であった.

 ランプ芯(しん)5銭.石油8銭.これを水油・ろうそくの消費と比較してみると,水油1斗3合,2円80銭.揚油1升余65銭.ろうそく約292丁2円6銭5厘であった.1870年より明らかに減少している.この外,石鹸(15銭5厘)が購入されて,前より少しは輸入品が使用されるようになったが,決して生活の中に入り込んだという感じはない.また,この年は写真を1回(2円)撮っている.さらに,3円50銭出してポンプ式井戸水揚機械を購入したことは一応注目してよいであろう.次に食糧では,たまごの消費が著しく増加し,年間約529個消費している.また,ブドウ酒が初めて嗜好され,年に4本ほど購入された.これは富沢忠右衛門が県会議員として横浜を往復するようになってから親しむようになったのであろう.

 次に1890年(明治23)の家計簿を見ると,水油がわずかに6升(1円62銭)と激減した.これは,ようやく富沢家の燈火も石油の支配が決定的になったことを示していよう.ろうそくも西洋ろうそく(1円66銭)という魚蝋を材料としたものができており,これを使用した.この外には,ランプ直し,ならびにホヤ代(78銭2厘)と理髪代2回.(15銭)が目につく.特にこの理髪2回は,どうやら忠右衛門が断髪して間もないころであったらしい.それから10年後の1900年(明治33)には理髪が年11回,1回10銭,顔剃りを入れて20銭.明治38年には顔剃りを入れて理髪は年16回と多きを教えている.

 それから1890年には忠右衛門は洋服を着用することもあったらしい.靴(2円30銭),襟飾代(50銭),夏帽子(45銭)の購入が記されている.また,持物では時計を2種類所持している.1つは懐中時計で他は柱時計であった.化粧品としては,香水(8銭),シャボン(7銭5厘),目薬(5銭)とこのころになるとだいぶ「文明開化」も浸透してきた.さらに1900年に入ると日常生活でも目につくようになったものは,この年,初めての巻たばこ3回購入(66銭)などであった(参30).

 富沢家は,慶長(1596〜1614)以来代々蓮光寺村の名主を勤めた家である.明治に入ってからも戸長に任命されるといった,この地方きっての名望家でもあり,大規模な養蚕業などを兼ねる豪農であった.しかも蓮光寺は,東山養蚕地帯の中心といえる武州南多摩郡の中枢であり,開港以来横浜とは最も結び付いた地帯であった.こうした地域で,しかも新しい文明の摂取能力の高かった富沢家ですら,生活上ではこの程度の西洋文明の摂取度であったのである.



前のページに戻る 次のページを見る 目次に戻る 表紙に戻る 文頭に帰る
2.2 新政府の諸改革と三多摩