3.1 結社の成立
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第3節 自由民権運動と多摩

3.1 結社の成立

3.1.1 昂揚する多摩の運動

(1)府中での演説会

 1880年(明治13)12月5日,北多摩郡府中駅は朝から雲ひとつない快晴に恵まれていた.駅からほど近い高安(こうあん)寺の境内は,午前中から慌ただしい人の動きで異様な熱気に包まれていた.また同じように,宮西町の称明(しょうみょう)寺でも昼少し過ぎには,広い境内に陸続参会者の集合が見られた.この日の府中駅は午後2時から称明寺で一大勧業教育演説会が,そして夕方からは高安寺で,神奈川県六郡懇親会の開催日であったのである.2つの大演説会が,三多摩地方において行なわれるのは久々であった.

 この年の4月5日,第1回国会期成同盟大会が大阪で開会されていた最中(さなか),大会にねらい打ちを掛けるかのように発布された集会条例は,一時的にせよ全国的に大きく昂揚していた自由民権運動に歯止めを掛ける結果となったことは疑いなかった.多摩地方においてもこの条例は,かなり厳しく効力を発揮していた.1880年10月20日号の『朝野新聞』論説に「往日ニ於テ政談演説ノ会ハ盛ンニ該県下ニ行ハレ,横浜ヲ始メ府中ニ,二宮ニ,五日市ニ,吉野ニ,久保沢ニ,八王子ニ,日野ニ皆ナ有志者ノ結合ヲ為シ,毎月演説者ヲ招聘シテ大会ヲ開キ,漸次ニ諸方ニ普及セントスルノ模様ナリシガ,夫ノ集会条例ノ頒布アルニ及ビ俄然トシテ火ノ消エシガ如ク」とあるように,多摩地域の民権運動の停滞は歴然たるものであった.

 ところがこうした新聞での警鐘を一気に払拭し,民権運動を大きく昂揚させる大会が,一挙に府中駅で開催させる運びとなったのだから,参会者の昂奮も当然であったろう.しかもこの演説会には,東京における最大の演説団体,東京嚶鳴社(おおめいしゃ)の肥塚龍(こえずかしげみ),野村本之助の2人も参加していた.また北多摩からは調布の中村克昌(かつまさ),三鷹の吉野泰三(たいぞう),谷保の本多定年(ていねん),南多摩からは野津田(のずた)の石坂昌孝(まさたか),八王子の成内穎(なりうちえい)一郎,西多摩からは五日市の土屋勘兵衛,千葉卓三郎,そして相州からは都筑(つづき)郡(久保村)民権運動の領袖(りょうしょう)佐藤卓幹をはじめ,橘樹郡(溝口村)の上田忠一郎といった武相各地域の民権運動を担う大物が来会していた.

 称明寺で始まった勧業教育演説会(集会条例が発布された後の演説の多くは,こういった学術,教育的名称を付けて,権力からの圧力に対抗していた)には,聴衆約300名が参集,そのため場中は満員のため庭上に立って演説を聞くといった有様であった.さらに夕方から始まった高安寺での懇親会にも150名を越える参加者を見,熱気をはらんだ討論が繰り広げられた.千葉卓三郎は,この大会の成功を感激をもって次のように記録している.「鳴呼我県会議員……四君閣下(石坂昌孝,吉野泰三,中村克昌,佐藤卓幹で,いずれも県会議員である−筆者注)此ニ見アリ,始テ我県民自由党ノ懇親会ヲ府中駅ニ開ク,吾輩欣躍手ノ舞足ノ踏ム所ヲ知ラス,即其身ヲ省ミス其分ヲ揣ラス,昧死冒涜進テ該会ノ後ロニ侍シ親ク其盛花ヲ観ルヲ得タリ,嵯乎何ノ幸栄カ之ニ如(シ)カン,尚且期シテ望ムラクハ,四君閣下吾輩後進ヲ誘導扶持シ着々歩ヲ進メテ,以テ其結果ヲ視シメ,英米人民ノ如キ反射ヲシテ将来我日本人民ノ反射タラシメンコトヲ」(参31).それにしても,これだけのメンバーが一堂に会することは多摩においても珍しいことであった.三多摩の自由民権運動は,この大会を期に大きく前進するのである.



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3.1 結社の成立