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(1)桜井静の提案
1880年3月,第4回愛国社大会が全国約10万名の請願委託人の代表96名の参加をもって大阪で開催された.そして画期的なことに,この大会の中で国会期成同盟会が愛国社とは別に発足したことである.そしてこの大会で代議員96名の結晶「国会ヲ開設スル允可ヲ上願スルノ書」が起草された.ここに国会開設請願運動が火ぶたを切っておとされていった.江村栄一によると,この1年間だけでも全国で起草された国会開設請願・建白の数は75件を教えあげることができるという.いかに「在村的潮流」の高まりが大きかったかを物語っていよう.
こうした在村的潮流の高まりを示す一例をみてみよう.1879年(明治12)7月24日の『朝野新聞』雑報に,次のようなセンセーショナルな記事が掲載された.「国会開設懇請議案」と題したもので,起草者は千葉県の一地方民権家桜井静と署名されていた.そこには一国の人民たるものには「一国議政ノ権利ナキハアラズ,既ニ其権利ヲ有スル以上ハ之ヲ実用ニ施スベキ権利アル国会ヲ開設」しなくてはいけない.そこで,わが政府は「国論公議ノ紛出不得止ニ至り始メテ本年ニ於テ地方県会開設」を実行した.しかし地方県会の権限は「狭小議件隘縮ニシテ僅々一県地方税徴収ノ下間ニ供スルニ過」ぎないし,「無勢力ナル者而已ニ甘従シテ止ム」の状態である.それに対して国会は「地方施政ヲ牽制スベキ法案ヲ可否決スベキ権利」を有し,政府行政を論議することができる.このように県会の効力が人民の福利を増益すること僅少である以上「国会ノ開設ニアラザレバ真ノ鴻益ヲ奏スルナキハ瞭然タリ」という.そして桜井は「吾輩一身ヲ以テ公衆ノ犠牲ニ供シ」全国の府県会議員に3つの提案を行なった.
第一 全国県会議員親和聯合スルコト
第二 東京ニ一大会ヲ開設シテ国会設立ノ法案ヲ議決スルコト
第三 政府ニ懇請シテ国会開設ノ認可ヲ得ルコト
この桜井提案は『朝野新聞』に掲載された後,全国各地の新聞紙上に発表された.ここには,3新法に対する批判が込められていると同時に,近代的地方自治権の確立は,立憲政体の樹立=国会開設,国約憲法の制定がなされていることによって初めて実現されるという思想が明確に打ち出されていた.民権運動史上画期的な意義を持つこの桜井アピールは,1879年11月の愛国社第3回大会の決議より4カ月も前に行われたことと相まって,全国各地に大きな波紋を投げかけた.
呼び掛けに対し反応は各地からあがった.岩手県では県会議長の上田農夫(たみお)が賛同を表明したし,新潟では山際七司が,このアピールを契機に県下に組織運動を展開した.茨城では数社の結社が連合し,茨城県連合会を組織して国会請願のための署名に乗り出した.そして2カ月余りの間に1万1,814名の署名を獲得したのである.東北では宮城県,秋田県が活発に運動を展開したし,長野県では奨匡(しょうきょう)社が中心となり,1880年4月までに2万1,535名の連署で「国会開設を上願する書」を上呈した.また岡山県では,両備作三国親睦会を結成,民衆の組織運動を積極的に押し進めた.そして有志2万5,000余名の結集により「鳴呼我同胞三千五百有余万の兄弟よ,兄弟は己に我輩と感を同ふし情を同ふせば,何ぞ進で国会の開設を懇望せざる,何ぞ奮て民権の伸暢を欣慕せざる,何ぞ誓って国権の拡張を企謀せざる,嗚呼仰で芙容峰(富士)の頂きを望み,俯て琵琶湖の深を瞰よ……此の如きの邦土山川坐がら人に付するか」の檄文が発表され,多くの青年民権家に感激を与えていったのである.こうして桜井のアピールは,在村的潮流を基礎とする民権運動を未曽有な高まりにまで押し上げた.そこには国会開設請願運動を中軸とした国民的な政治運動の展開が展望できるのである.
(2)第1回国会期成同盟大会の成果
この国会開設請願運動の波は1880年に入るとピークに達した.都市民権派ジャーナリストの堅実な啓蒙運動は在村的潮流を前進させたし,また愛国社的潮流と結合することによって本流となっていった.
3月,大阪において第4回愛国社大会が開催された.この大会は,前年の桜井静の提案後の岡山,福岡県有志によって上願された国会開設請願に対する土佐派の対応に主眼点が置かれた.在村的潮流の運動に主導権をさらわれる格好となった,愛国社的潮流のショックが露骨に現れた大会であったといってよい.会開催直後より激しい紛糾が起こっていた.しかしこの大会の意義がすべて失われたわけではない.まず全国10万名の委託を受ける代議員の手によって「国会ヲ開設スル允許ヲ上願スルノ書」が起草されたし,このエネルギーをさらに結集して,同年11月に第2回国会期成同盟大会の開催も約束されたのである.
この国会期成同盟大会でのアピールは,桜井提案の余勢をもかって全国に一大国会開設請願の嵐を呼び起こしていった.神奈川県では2月,第3回地方官会議の傍聴に上京した神藤利八(高座郡),今福元穎(いまふくげんえい)(高座郡),杉山泰助(大住郡)の3県議が,この会議傍聴のため上京していた全国有志の集会に参加(両国中村楼で開かれた),桜井アピールを受けて国会開設請願の準備を開始した.3月から始まった請願署名運動は,相州9郡に大きな反響を呼び,6月初めまでに559町村,2万3,555名の大量署名を獲得した.相州9郡の総戸数は7万6,200戸であるからその署名者を戸主とした場合,実に3戸に1戸の割合で署名が集まったわけである.起草原案「国会開設ノ議ニ付建言」は福沢諭吉に依頼され,彼が起草したものであったが,しかし相州2万5,000余名の同意によってなされたこの請願書が,少しもマイナスの面を持つことがなかったことはいうまでもない.
(3)国会開設運動と三多摩
神奈川県の国会開設請願運動が,相州9郡だけで,武州6郡にみられなかったのはなぜであろうか.『町田市史』下巻には「三多摩の有志は東京生糸商会設立という大事業に立ちむかっていたため国会開設運動に手がまわらなかったとみてよい.」と述べられているが,筆者は国会期成同盟大会の活動に幾分ひややかな面があった東京嚶鳴社との関係があると考えている.すなわち,東京嚶鳴社は,国会期成同盟との共同歩調を取っていないばかりか,既にはっきりと対抗する姿勢をみせていることである.そしてこの段階において東京嚶鳴社は,具体的な国家構想,憲法構想を立案しつつあった.そのグループとの深い関係にあった武州6郡が,あえてこの時期,分散的な国会開設運動がどのような効力を持つか見通していたよう思われる.また,4月に発布された集会条例による集会,結社の活動規制は,五日市においては,発足したばかりの結社の発展に,大きな足かせとなったことは事実であったし,また,他地域をみるならば,具体的な結社創立がなかったことが,全郡にわたる請願運動を展開させる条件を持たなかったことは事実と思われる.現に五日市の民権家深沢権八の手には,相州の建白書が清書されて渡っていたし,後述するように,この年(1880年)の末,東京嚶鳴社が主導権をもって第2回国会期成同盟大会の中で提起した私擬憲法起草,大同団結によることの民権運動の発展には,見事に呼応していくことを考えても,一概に運動の未熟性で片付けることはできない.また1885年(明治18)年1月,五日市においては「国会開設期限短縮建白書」の作成を北多摩,西多摩郡民権家と共同で行っていることから『町田市史』にみられるような理由では決してなかったことは確かであろう.
ともあれ,武州6郡は桜井提案後,表立った活動をみせなかったのに対し,相州9郡は以上のような昂揚を示したことは重要である.相州民権家天野政立によって,この請願書は1880年6月5日.元老院に提出された.郡総代として上京した天野は「国会開ケザレバ生テ再ビ郷里ニ帰ラザル」決心であったという.また,山梨県の国会開設請願の代表古屋専蔵らは,岩倉に直接面会にいき,請願受理を頼んだが,政治上に関する用件のため面会謝絶に遭う.業を煮やした古屋は,イギリス人がジョン王に迫ってマグナカルタに調印させた故事に倣って,明治天皇巡幸の途中をねらって請願書を上呈しようと企てた.これを聞いた山梨の民権家小田切謙明は,大いに驚き,佐野広乃に命じて中止を説得させるといった一幕もあった(参36).こうしてこの年12月までに,日本全国から数多くの建白,請願がなされていったのである.今後も地方研究が進むにつれて,まだまだ発見されるであろう.