| 前のページに戻る | 次のページを見る | 目次に戻る | 表紙に戻る |
(1)第2回国会期成同盟大会
1880年11月10日,第2回国会期成同盟大会が東京において2府22県,13万余名の代表67名の出席をもって開催された.同年の3月の大会で決議され,また,桜井提案によって全国的に昂揚していた国会開設請願運動も,明治政府の厚い壁に阻まれ,結果的には運動方法に対して再考の必要を迫られていた.こうした現実的な課題を抱えていた今大会は当初から今までの分散的請願,建白の運動から一歩進めて,大同団結による運動に切り替えなければならないということ,また,政党組織をもって統一された行動に移らなければならないということの論義が生じていった.
その具体策として新聞,雑誌による啓蒙,演説会や地方遊説の強化を通して,地方の団結を強固にし,全国人民の実力を養成して中央=地方の組織系統を作り上げようとする意見が大勢を占めた.また今大会には,初めて都市民権派ジャーナリストの潮流の代表的団体,嚶鳴社から草間時福が参加,憲法起草の具体案を提起した.若干の混乱もあったが,しかし議目第四条に「来会には各組憲法見込案を持参研究す可し」(参39)としてその決議をみた.すなわち,来年(1882年)10月の第3回大会を期して各地方結社において憲法研究を行い,起草の完成した結社は,その草案を大会に持ち寄り,協議したうえで政府に提出するというものであった.
今大会終了と同時に,自由党準備会の結成が中央において行われた.今大会の重要課題のひとつであった政党組織による統一行動の具体化であった.そしてその主導権を握ったのが,嚶鳴社の代表沼間守一であった.これは,東日本に一大勢力を築きつつあった嚶鳴社の実力を糾合することによって,東日本に浸透を図ろうとした愛国社的潮流の思わくもあったろうが,しかし沼間によっては自ら愛国社的潮流との連繋による組織拡大の意図があったと考えることが妥当のように思われる.ともかくも,この二大潮流の連携は,この後,自由民権運動を一段と高みに押し上げていったことは疑いなかった.
(2)自治改進党の発足
第2回国会期成同盟大会での地方団結,人民の実力養成,私擬憲法起草のアピールは,多摩の自由民権運動に大きな影響を与えていった.本節冒頭の府中駅での二大演説会は,このアピールを受けての盛会であった.そこには今までの停滞的雰囲気は一新され,前進を約束させるものとなった.北多摩郡では,1880年11月まで,結社の設立はなかったが,この府中演説会後急速に団結の気運が高まっていった.そして翌81年に入ると,北多摩郡で積極的に民権運動を押し進めていた,上石原の中村克昌(かつまさ),三鷹の吉野泰三,谷保の本多定年らが中心となり,北多摩一円の民権家を糾合し144名の党員でもって1月5日,自治改進党を発足させていったのである.発会の盟約をみると,そこには第1条「我党ノ主義ハ人民自治ノ精神ヲ養成シ,漸ヲ以テ自主ノ権理ヲ拡充セシメントスル」,第3条「我党ハ我主義ヲ達スルニ便ナルカ為メ,必ス方域ヲ画ラス曠ク結合ヲ諮り,和合一致シテ利害憂楽ヲ共ニスルモノトス」(参40)とあるように,第2回国会期成同盟大会の影響を強く受けつつ,またこの自治改進党をヨコ糸とし,北多摩の各地域に結社を誕生させ,さらに南多摩,西多摩との連携のうえで,地域啓蒙,組織の拡大を図ろうとしたことが明らかになる.現に1月以降府中はもちろんのこと,調布町,田無町,立川町,小川村,中藤村,国分寺村,芋久保村,小金井村,狭山村,戸倉新田村,奈良橋村,溝口村にと続々演説会が開催され,また多くの結社の誕生をみるのである.
(3)武相懇親会の成立
北多摩郡と同じように,南多摩郡でも府中駅の大演説会が引き金となり,その直後の1880年12月8日,石坂昌孝らが中心となって一大結社を作り上げるべく,武相一円に檄文を配布した.そして翌81年1月2日,その余勢をかって原町田に武相懇親会を組織したのである.この趣旨をみると「詩曰ク,幽谷ヨリ出デテ喬木ニ遷リ嚶鳴其レナリ,其友ヲ求ムル声アリ,蓋シ人類ノ開明ニ向フ鳥猶木ノ喬木ニ遷ルカ如シ.友ヲ求メ智ヲ集メ磨励スルニアラサルヨリハ如何ソ,隆昌ノ佳域ニ進ムヲ得ン.是懇親会ノ目下二緊急ナル所以ナリ」(参41)と述べられており,自治改進党と同じように演説会を主体とした啓蒙活動を展開しようとしていたことがわかる.
こうして1月30日,第1回武相懇親会は原町田に開催された.参加会員も200名の余を越え,東京嚶鳴社からは末広重恭(しげよし),肥塚龍の2名と,第2回国会期成同盟大会に信州から参加し,その後多摩の景況を視察していた松沢求策が北辰社の上条信次とともに,この発会式に参加した.南多摩と相模における民権運動発展の基礎はこの武相懇親会が握るのである.この後,この武相懇親会は「明治14年の政変」後,中央において自由党が結成されるや,それに呼応して組織を拡大,1881年11月3日,一大政社融貫(ゆうかん)社へと発展していった.