3.3 変質する自由民権運動
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3.3 変質する自由民権運動

3.3.1 政党の成立

(1)明治14年の政変

 1881年(明治14)10月11日,明治専制政府は御前会議において立憲政体に関する方針を決め,さらに北海道開拓使官有物払い下げの中止,大隈重信罷免などを決定する,いわゆる「明治14年の政変」を断行した.そして翌12日,1890年(明治23)に国会を開設するとの詔勅を発表,大隈派の官僚矢野文雄,尾崎行雄,犬養毅(いぬかいつよし)らを,続々と辞任に追い込んだ.この政変は,明治政府にとって窮余の一策であった.それは自由民権運動の急迫が,いかに激しいものであったかを物語っている.  明治政府にとって正に危機であった.ましてや国家の基本ともいうべき憲法起草の指導的地位を民権派に奪われることは,政府の瓦解を意味した.いやそう考えたのが政府官僚たちの本音であった.民権派の国会開設,憲法起草運動が全国を席巻する中,伊藤博文,山県有朋ら政府首脳は,猛烈な巻き返しを謀っていった.これが「明治14年の政変」であったのである.

(2)自由党・立憲改進党の結成

 明治政府の打った苦肉の策,国会開設の詔勅は,民権側に思わぬ混乱を招いていった.第3回国会期成同盟大会のため東京に参集していた民権家たちは.大会の計画変更を余儀なくされた.現に起草した憲法を持ち寄り研究しようとした同盟大会は,この目的では開催されなかったのである.10月18日自由党結成準備会に名を変えた同盟大会は,大荒れの中,板垣退助を自由党総理に推挙,29日には大会を終結した.101人でスタートした自由党は,翌15年には626人,1884年(明治17)には2,224人と組織は拡大した(参45).しかし,この自由党は明治13〜14年の民権運動が全国的な政治運動へと発展した民衆のエネルギを十分に吸収するものではなかった.

 1882年(明治15)3月,下野した大隈重信は直ちに立憲改進党を結成した.しかし,両派は,民権運動共同の敵であった明治専制政府の攻撃より,自由党,改進党の派閥抗争の泥試合に専念するのである.当然地方の結社にも変化が現れた.今までのような実力養成,民権論喚起による政府攻撃という運動形態から,両派の勢力拡大を求める行動に揺り動かされ,結社自体が質的変化をしていったのである.

(3)西多摩郡の動き

 しかし,この不意打ちにも近い明治政府の国会開設の約束は,民権家たちに大きな衝撃を与えた.南多摩郡小川村の民権家細野喜代四郎は手記に次のように記している.「霹靂(へきれき)一閃恰も電気に撃たれるが如し,今にも開会せん勢にて闕下に雲集したる所の志士も呆然自失,今より十年即ち三千六百五十日,日暮らしの蝉ならなくに徒空騒をなし居るも何の益なきこと故,皆郷関へ帰り各自地方々々に政社団体を組織し,国会開会の場合の準備に着手することとは為したり.」(参46

 同じように,この詔勅に対して,三多摩の民権家たちも大きな衝撃を受けたことであったろう.中でも五日市の千葉卓三郎は特にそのショックも大きかったと思われる.なぜならば,第二回国会期成同盟で約した第三回大会もこの詔勅のために混乱し,自由党結党大会(10月29日)に変わっていったし,それよりも,各地域代表の用意,持参した憲法起草案の審議は全くなされなかったのである.五日市有志をはじめとし,千葉の頭の中には,10年後の国会開設と政党組織化の運動も重要な問題ではあった.

 しかし,それにも増して,憲法制定=立憲政体の実現が当面において政府に要求する重要な課題であった.それは,彼らの研究,討議された中から生み出されたひとつの結論であった.

 こうした憲法起草,立憲政体樹立を主体において学習が展開されていた五日市民権運動も,当然明治14年以後,運動方針に一大転換を迎えざるを得なかったのである.まず,手始めに学芸講談会では組織の改革があった.次の史料を参照されたい.

 第二号
 本月一日総会議ニヨリ本会各組合区画左之通決議候間此段通知及候也
 明治十五年四月三日
 学芸講談会

 五日市組{西多摩郡五日市町 伊奈組{西多摩郡伊那村 乙津組{西多摩養沢村
      南多摩郡八王子町         山田村        乙津村
 戸倉組{多摩郡小中野村 留原組{西多摩留原村 南多摩郡上川村
         戸倉村        高尾村
 入野組{西多摩郡深沢村
         三内村 館谷村 入野村
 第三号
 本月一日総会議ニ於テ本会役員左之通撰出相成候間此段通知及候也
  明治十五年四月三日
   学芸講談会
   名主 内山安兵衛 副名主 深沢権八
   年寄 土屋勘兵衛 馬場勘左衛門 伊奈組 田島新太郎 入野組 村野金八
   乙津組 未定
 第五号
 本月一日総会議ニ於テ大石正巳氏外壱名(ナラバ堀口昇氏)ヲ聘シ,五日市町ニ於テ政談自由大演説会開会可致様決議候間,此段通知及候也
  学芸講談会
 明治十五年四月三日  名主 内山末太郎 副名主 深沢権八(参47

 まず,第二号では,中央における慌ただしい政党化の動きに敏感に反応,団結強化と実力養成を目的とした組織作り(政党化の動き)に邁進する五日市の姿を見い出すことができる.このことは他の地域においてもみられた現象である.

 また,第三号では,学芸講談会の主導権が内山末大郎,深沢権八に移り,新しい時代を迎えたことがわかる.当時内山は17歳,深沢は21歳の若冠であった.これはこの後の五日市自由民権運動の方向に大きな影響力を与えていくことになる.

 次に,第五号の総会での決定どおり1882年4月25日,さっそく中央から民権家を招聘し一大演説会を開催,自由党の動きに呼応する動きをみせ始める.

 「神奈川県下西多摩郡五日市町の有志者内山末太郎,深沢権八,土屋勘兵街,馬場勘左衛門等の諸氏は去る25日を以て東京より弁士奥宮建之氏及び弊社の堀口昇氏を招待され,野口楼に於て政談演説会開かれしに聴衆二,三里の遠方より山野を踰えて来会せし者二百余人に及び,議論妙所に達するや手を拍ち声を揚げて賛成を表し僻地に稀れなる盛会なりしと云ふ.夫より又同楼の二階に於て深沢名生,土屋常七,千葉卓三郎,佐藤蔵之助,北村孫(弥か)助氏等七十九名の有志親睦会を開き,酒間互に胸襟を開きて時事を談論し,席上演説を為し各員歓を尽して十二時比に散会せりと云ふ」(参48

 ここで重大なことは,五日市の動きが今まで親密な関係にあった東京嚶鳴社から離れ,急速に自由党に近づいていったことである.

 確かに,東京嚶鳴社は1880年11月大会以来,土佐立志者との大同による団結とともに,自由党創立準備に主導を執って,全国的な規模での運動を展開してきた.しかし,1881年10月,自由党結党の段階で嚶鳴社は板垣と袂を分かち,翌82年3月,政府から追放された大隈重信の率いる改進党に参加していったのである.

 こうした中で,五日市は一時は嚶鳴社との共同歩調はとっていたようであるが.なんらかの事情があったのであろう,1882年に入ると改進党系に進んだ嚶鳴社とは訣別し,板垣の率いる自由党に接近していった.そして1882年8月15日には学芸講談会員のメンバー8名が挙って自由党に入党していったのである.

 内山安兵衛(末太郎),佐藤新平,土屋常七,馬場勘左衛門,千葉吾一(宮城県人寄留)の4人が五日市町から,深沢権八,佐藤蔵之助,田島新太郎,大上田彦左衛門の4人が隣村から,それぞれ最初の入党者として『自由党員名簿』に登録されている.入党年月日は不明であるが伊奈組の大福清兵衛もそれに続いたのであろう.いずれも当地方の指導的な名望家ばかりであった.

(4)北多摩・南多摩両郡の動き

 こうした動きは北多摩・南多摩両郡にも起こっていった.北多摩郡では1881年1月,一郡を糾合して設立された自治改進党も,中央での運動の混乱をそのまま受けて,行動は分裂へと進むのである.まず,党員の中で主導的立場に居た調布の中村克昌,中村重右衛門,谷保の本多定年,奈良橋の内野杢左衛門ら16名が自由党に入党していった.立憲改進党は党員名簿が明らかでないため,その氏名はわからないが,立憲改進党の勢力が北多摩郡中にある程度存在することから,党員の一部は立憲改進党へ入党したことは疑いない.例えば,地域的にみて,田無,昭島などは自由党より立憲改進党に近かったのではないかとも推測できる.多くの党員は,両党に入党することはなかったが,しかし各地域の民権運動の推進に大きな役割を果たしたことは事実であった.最近狛江で発見された史料によると,自治改進党に参加していた栗山竜之輔(くりやまたつのすけ),石井寅三らの手によって狛江村にも「交潤講益社」と呼ばれる結社が設立され,地域に即した運動が展開された事実が明らかになっている.

 だが,北多摩郡の民権運動がこうした分裂によって急速に衰退したわけではなかった.各地域では1882年を期に前年に変わらず演説会は活発であったし,活動は目を見張らせるものがあったのである.また,北多摩郡の運動の中で注目すべものがある.それは1883年(明治16)10月,府中で具体化された『武蔵野叢誌』の発刊である.自治改進党員であった谷保付の本多定年,府中町の比留間雄亮(ひるまゆうりょう)らの発起で始まったこの雑誌は,わずか1年,25号で廃刊の浮き目をみたが,しかし,民権運動を通じて多摩民衆の政治,法律,文化に対する質の高さを十二分に発揮したものであったといってもよい.しかも,彼らの運動の成果を示すものとして,また廃刊の直接の原因となった「日東家伝勅命丸」の広告を掲載したことにあった.

 「此薬の儀は今を距ること二千五百四十四年先祖代々より売弘め百廿三代相続仕候去乍ら数代の間には沿革少なからず保平の乱より家業不行届鎌倉へ相任せ安泰に暮し居其後元弘建武の大乱出来南北に相分れ明徳年中足利氏の助に拠り一統仕候得ども無程応仁文明に騒動起り上下隔絶四海鼎沸万民困倒殆と身を置く所なく一百八十有余年終るに慶元の際に至り数年の擾乱一時に治り億兆の生霊枕を泰山の安に置候事茲に至て三百年然るに安政年中より外国交通の道大に開けし以来家務を振起し薬法を一変し薩長土の三味を加へ徳川の一味を除んと苦る敷製造致し遂に明治元年より弘く万国の名声を売り文明の箔を懸け開化の粘粉と用てねり家法を衆の子弟と議せんと三度の紙は正直にて廿三年に至り猶製薬法も大変せんと欲す尤も諸物価の高下に随ひ此定価も改正すへし夫迄の間は万事従前に任せ番頭丁稚等の気楽な住家を営繕し春柳花街に酔を買ひ武総山野に腹を減らし馬蹄の塵を拝見するも当分の内に候間普天愛国愛民の諸君仰合され家伝改製の良薬を十分御購求下され度屈指すれば僅に二千有余日間なれば実に余計な御世話ながらも一寸勅命丸薬の履歴を広告致し置候以上」(参49) 自由屋自主助謹白

 この広告を投稿したのは,日野宿で代々名主を勤めた佐藤俊宣(としのぶ)であった.佐藤はこの戯文を天皇の歴史になぞって宣伝文を書いたのであった.当然この一文は不敬罪に問われ,佐藤は.なんと4年にわたる獄中年活を強いられたのである.ここにも多摩の民権運動が培ってきたしたたかな一面を私たちは読み取ることができるであろう.

 一方南多摩郡はどうであったろうか.自治改進党の設立とほぼ同時に発足した武相懇親会は,明治14年の改変後の自由党設立に呼応するかのように,その組織を拡大,ここに融貫社(ゆうかんしゃ)を成立させていった.すなわち,中央における自由党の下部組織の役割を持ちつつ「我国ヲシテ立憲帝政タラシムルノ日的ヲ以テ,専(モツパ)ラ政事ノ改良ヲ謀」(参50)るといった目的が明確に打ち出されていったのである.当然,融貫社をリードするメンバーのほとんどか自由党員となっていった.また,北多摩自由党員との連繋もはっきりみられ,その意味では三多摩郡および相州自由党の大同団結を謀る政社として発展したといってよい.多摩が自由党の一大拠点と呼ばれるようになっていくのはこの融貫社の発展があったからであった.



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