3.3 変質する自由民権運動
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3.3.3 諸激化事件

(1)武相困民党事件

 1884年に入ると,全国に困民党事件は相次いだ.まず1月には伊豆に負債党,福島県白河に借金党が.2月には新潟県西蒲原(にしかんばら)郡と和歌山県新宮(しんぐう)に.3月には兵庫県養父(やぶ)に.4月には福島県磐前(いわさき)郡と菊田(きくた)郡に.5月には群馬県の妙義(みょうぎ)山で起こった群馬事件.そして8月には武相を大きくのみ込んだ武相困民党事件.さらに11月には日本農民闘争の最大のものであった秩父困民党事件と,負債農民による負債返弁騒擾(ふさいへんべんそうじょう)は続発したのである.

 ここ武相でも,松方デフレによる農民の疲弊は極に達していた.そして相州で起こった高利貸露木卯三郎殺害のニュースは,武相の農民たちを大きく刺激したのであろう.この年の7月,八王子を中心に西多摩,北多摩郡の農民は南多摩郡川口村(現在の八王子)の塩野倉之助の下に結集を始めたのである.塩野は江戸時代以来の名主の家に生まれ,幕末から明治にかけては,養蚕普及にも尽力,また「油屋の倉さん泣かすにわけはない.佐倉宗吾の子別れかたれ」(参54)といわれたような義民型の豪農として村民の人望を集めていた人物であった.

 塩野は連日のように,高利貸,金融会社から取り立てを受ける負債農民の苦しみをみて,ついに3郡33力村の農民の代表として川口困民党を結成していった.だが.いち早くこの様子を察知した八王子警察は,9月1日塩野の家を急襲し委任書類ともども書記の町田克敬(かつちか)を連行したのである.4月後の9月5日,塩野を中心に多くの負債民は八王子の明神(みょうじん)山に集合,前後策を討議した.結論が出ない.ついに塩野は「断然単身以テ之ニ当ラン」(参55)と山を降り八王子警察に向かった.かれを見殺しにできない.農民たちは続々彼の後ろに続いた.八王子警察に着いた200余名の農民たちは,口々に町田の釈放,委任書の返還を要求したが,官憲は解散を命令,全員逮捕を強行した.逮捕者は210名,うち八王子の農民は122名の多くを数えたのである.

 9・5事件以降警察の警備は厳重を窮めていった.そのため小規模に起こっていた騒擾も一時沈静するかにみえたが,実はこのころから武相困民党の一大組織が結成される先触れでもあった.特に9・5事件の反省が組織作りを深く潜行させたのである.こうして1884年11月19日,武相7郡300力村の代表を集めた武相困民党結成大会が相模原で開かれた.その中心メンバーには,谷野村(八王子)の須長蓮造(すながれんぞう),上小山田村(町田)の中島小太郎,下小山田村(町田)の自由党員若林高之助らがいた.

 中でも須長は谷野村の戸長を勤め,学務委員などを歴任した村一番の豪農であった.ちなみに,彼の財産は1879年当時,山林田畑を合わせて20町歩余を所有していたという.人間としても「無口で穏和な性質の人で,事を荒だてるようなことを好まず,だまって細かな記録や地図をこつこつと書きあげていく」(参56)といった人柄であった.この温厚な須長を怒らせたのは,松方デフレの猛烈な収奪の中で,戸長の任務を遂行しつつ,村民の苦しみを目の当たりに見,また自らもそのあおりを受けたここ数年の国家の強圧にあった.そして塩野倉之助らの不当逮捕が温厚な須長の怒りを一気に爆発させた.それ以降困民党のリーダーとして武相困民党の組織作りに全力を傾けていくのである.

 大会は次のような檄文を発表して終幕した.「諸君知ラスヤ吾曹ノ対手ハ最モ強敵ニシテ最堅壁ニ拠レリ.吾進撃ノ前途ニ横タハルハ荊棘雖然正理ヲ以テ剣トナシ公道ヲ以テ鉾トナシテ難倒蹂躙シ倍進テ主義ヲ貫キ目的ノ域ニ至り而シテ全勝ノ功ヲ奏シ凱歌ヲ天下ニ揚ルコト何ゾ難シトセンヤ,是只衆心団結力ノ強弱如何ニアルノミ,請吾ガ同胞兄弟ヨ豈卑屈スルノ時ナランヤ,宜シク速カニ奮起シテ希望目的ヲ徹底スルコトヲムベシ,只是楽境ニ遊ブト倍困苦ニ陥ルトハ同胞兄弟ノ奮発スルト否トノ気力ニアルノミ……諸君請活動セラレヨ,諸君請奮励セラレヨ」(参57

 だが,困民党がこの大会で決定した運動方針は,実力行使から県令,郡長の請願という控え目なものであった.つまり高利貸し,金融会社との行き詰まった交渉を,県や郡当局の職権によって打開を図ってもらう目算を立てたからであった.しかし,郡長へ提出した請願はにべもなくはね返された.同じように県令宛の歎願も効を奏さず,逆に困民党の解散を強要する「速ニ出頭総代1名儀ヲ去リ団結ヲ解ケ……若シ強テ申立ル以上ハ無余儀警吏ニ引渡処分スルノ外ナシ」(参58)と脅迫と説諭が繰り返されたのである.

 すべての道が断たれた.負債農民の怒りは爆発した.1886年(明治19)1月14日,みの笠に身をくるんだ農民300余が,相模原大沼新田に続々と参集していった.そしてその一部が県庁に向かって抗議のデモに向かった.しかし瀬谷付近まできたとき,待機していた官憲の手によって農民たちは鎮圧されていった.後には困民党幹部須長,中島,若林らの逮捕が続いた.罪名は「兇徒衆嘯」であった.こうして武相困民党の下部組織は指導者を失い壊滅していったのである.秩父事件が官憲・軍隊との激しい闘いの後,組織を崩壊させてからわずか2カ月後のことであった.

(2)自由党と困民党

 明治政府の激しい収奪の嵐の中,自らの生活権をかけて闘った武相困民党は官憲の弾圧の前に無残にも挫折した.この中で,人民の権利に目覚め自由と平等を求めて闘われた自由民権運動の伝統はどのような役割を果たしたであろうか.明治14年の政変以降,民権運動は大きな岐路に立ったことは先に述べた.三多摩地方においては,その後勢力の多くは自由党に流れ,1883年以後自由党の一大拠点とも呼ばれる地域であった.この自由党勢力がつちかってきた理念を困民党事件にどうあらわせたか.それを解き現すことが必要であろう.

 まず一言でいって,自由党と困民党の関係は分離・雁行であったといえる.少なくも自由民権運動が掲げてきた国家構想=国会開設・憲法制定の基本理念は,農民たちの小商品生産者としての生活権の確保,政商および大資本育成による上からの資本主義政策を押し進める明治国家とは本質的な対抗関係を持っていたはずである.したがって松方デフレが,根本的に農民の生活権を脅かすものであり,豪農・貧農を問わず自生的発展を遂げようとする(下からの資本主義発展)農民たちの権利が抑圧される限り中小商品生産者の代表が多くを占める自由党と負債農民の多くによって構成される困民党とは利害が一致していた.現に一例として挙げるなら南多摩郡の石坂昌孝は1877〜79年の土地所有は27町7反3畝,地価金が5,316円であったが,松方デフレ以降75%の土地を失い,地価金も1,570円に下がる.また同村の村野常右衛門も1877年14町7反,地価金2,202円であったのが,1886年には23%を失い,1,699円になっている.このことは階級的性格からみて石坂・村野のような豪農層と困民層とは利害を異にしていないのがわかるであろう.

 しかし,自由民権運動を押し進めてきた人々の多くはそれを見抜くことができなかった.確かに松方財政と増税問題に対し,全く手をこまねいていたわけではない.1883年ごろの『自由新聞』は松方財政の批判も行っているし,酒税の増大に反対する酒屋会議を開いたりしている.また,困民党騒擾が起こる中,困民党と金融会社との間に入り仲裁役をかって出るグループもみられた.多摩では石坂昌孝らがその中心であった.南多摩郡では石坂ら46名は1885年に地租軽減運動を,西多摩郡では同年地租上納延期願がなされているし,愛甲郡でも大規模な請願運動が展開されていた.その多くは困民党騒擾の最中に行われているのである.

 だが,多くの民権派は困民党の運動を批判する側に回った.鶴巻孝雄は三多摩の民権派の行動を「歎願運動そのものは松方財政に対する意味を持っていたが,一部の地主が主導して署名を集め,歎願という穏和な行動しか組織しえないとすれば,政治的有効性は極めて低かったと言えるだろう.三多摩の場合,民権派豪農たちは,地租の問題で民衆の自発性を引きだして広範な民衆運動に発展させるのではなく,結局負債農民への批判の上に合法的な歎願運動をおこない,地主の利害を守ろうとしたにすぎなかった」(参59)と述べているが一面では確かにそのとおりであろう.すなわち民権派の意識の中に,困民党が発生する諸条件を政治的課題として位置付けることができなかったことが挙げられる.それでは民権派の政治的課題とは一体何であったのであろうか.次の例は民権派の限界を現す典型といえよう.

 1885年9月,加波山山頂に政府打倒を掲げて武装蜂起したメンバーが,武相困民党の動きに連携を求めて多摩の地に乗り込んできた.しかし,農民の動きをみて「これらの徒,みな事理を解せず,主義を持せず,無気力,無志操」(参60)と片付け去っていったという.また,この年,困民党が武相で激しい闘争を展開している最中,自由党総理板垣退助が青梅・五日市を遊歴,鮎漁を楽しんでいた.板垣を迎えたのは,多摩の民権家であったのである.ここには自らの思想を国家的視点に立つ高いもの→志士的気概,農民のそれは低いもの→志操軟弱と受け止め,共通基盤に立てないもろさを露呈したものではなかったか.こうした面が民権派の意識の中に潜在する限り,愚民観が優先し,農民を革命路線へ組織できなかった最大の弱点であったろう.

 だが,以上のことをみてもなおかつ一言付け加えるならば,自由民権運動はあまりにも早熟的なまた未熟なブルジョア民主主義運動であったといえよう.これは日本の歴史の特殊性ともからみ,単に西洋のブルジョア民主主義運動との安易な比較は意味がないということである.7世紀に及ぶ封建制が打倒されてわずか10数年,少なくとも自由民権運動を押し進めてきた豪農層が,内部的には270年にわたる徳川封建社会の培った村落共同体の諸矛盾を未整理のまま,階層序列に引っ張りながらでも抵抗形態を採ったことが民権運動の成果であったはずである.その意味では自由民権運動は正に両刃の剣であった.しかし,その中でも人民の意識は自らの手で未来の国家を描くまでに成長したのである(五日市の憲法起草運動をみられたい).その問題と運動が変質し,大きな亀裂を持ち始める時期の運動を一緒くたに捕らえて,批判を下すことは正しい歴史認識ではないと考えるのである.

 何はともあれ,三多摩においては,武相困民党事件を切っ掛けに自由民権運動は大きくその姿を変えていったことは事実であった.また三多摩では,こうした民権運動の変質を端的に示す事件が,この後起こっていく.

(3)大阪事件と三多摩

 西多摩郡五日市の小学校,勧能学校の助教をしていた利光鶴松(としみつつるまつ)(後に小田急電鉄の創設者となった人物である)が,同じ学校の教員仲間の久保田久米,加藤宗七,長坂喜作の3人によって,五日市の北西の小高い山の上にある開光院という寺に呼び出されたのは,1885年(明治18)初秋のある晩のことであった.

 ここで利光は,後に「大阪事件」と呼ばれる革命遂行のために決行する非常手段を打ち開けられた.資金調達の強盗に参加を求められたのである.このときの様子を利光は晩年の手記『利光鶴松翁手記』に,次のように書いている.

 「予ヲ誘ヒ出シ(開光院の裏山に)秘密ノ誓約ヲナサシメ,朝鮮征伐ニ加盟ヲ求メタリ.予ハ是レヨリ相当ノ学間ヲ修メテ,然ル後国家ニ尽スノ方針ナリトテ,之ヲ拒ミタルニ,秘密ノ漏洩ヲ防グ為メ,君ノー命ヲ貰フ等ト,予ヲ強迫シタレドモ,予ハ堅ク之ヲ拒ミタルモ,結局双方秘密ヲ守ルコトヲ堅ク申合ハセ,其壗学校ニ引上ゲタリ,其時予ヲ,殺ス,ト強迫シ,予ハ,予ヲ殺セバ夫レニテ忽チ秘密ガ曝露スルニ心附カザルヤ,ト反駁シタルニ,今ノハ狂言ナリ,ト告白シタリ.」結局利光は,この企てには参加しなかったが,久保田らは数日して強盗決行に走っていったのである.

 このように,例え主義,主張のためとはいえ,強盗という非常手段にまで訴えて革命を遂行しようとした青年たち,彼らをここまで駆り立てた「大阪事件」とは一体どのような事件であったのか.多摩地方を大きく巻き込んで起こったこの事件を考えてみたい.

 1882年(明治15)6月,集会条例が改悪された.そして地方結社への弾圧が加わり,全国に簇生していた各結社も解散か改組(再認可申請)を余儀なくされた.三多摩の民権家たちは,これを期にして大挙して自由党に入党していった.石坂昌孝は融貫社の20余名を率いて入党したことでもわかる.しかし,全国的にみると,この年の12月に起こった福島事件を境に,政府の民権運動に対する峻烈な弾圧は,この運動の中心的役割を担っていた多くの豪農層を戦列から離脱せしめるに至ったし,現状の政治状況では変革の道が徐々に厳しくなることも事実だった.

 こうしたことから,関東,中部,北越などの民権家の中には「すでに言論による戦いの時期は終った.これからは実力によって抵抗しなくては」と,民権運動自体の本質的変更を求める意見が続出していた.三多摩を中心とする神奈川県地方をみると,それでもまだ,この後1・2年は言論戦による活発な活動を展開していた.

 しかし,1884年(明治17),松方デフレ政策による不況が一段と深刻化し,農民騒擾が熾烈になってくるに従い,三多摩地方の運動自体も次第に変化してきた.まず,今までの学習結社は,以前から思想,政治学習に加えて武術の練磨も怠りなかったが.ここに至るや一層訓練を強化し,壮士の育成に力を入れるようになってきた.

 1883年(明治16)2月,まず南多摩郡野津田村(現在の町田市鶴川)に村野常右衛門らによって凌霜館(りょうそうかん)が設立された.村野は後に政友会の幹事長として,名声をとどろかせた人物であるが,青年時代は先輩の石坂昌孝らの影響を受け,新知識の吸収に努めた.彼は自分の吸収した新知識を村の青年たちにも分け与えることを目的に,凌霜館を設立したのであった.今日「凌霜館出席人名帳」を見ると,連日のように剣術の稽古や,学習会が開かれていたことが知られる.

 1885年,八王子には自由党広徳館が設立された.由木村出身の林副重(はやしそえしげ)が館長となって多摩の自由党活動の拠点にしようとした.また,山上卓樹,山口重兵衛,柏木豊次郎らの民権家たちは,元八王子に鴻武(こうぶ)館を開設,浅川の河原で剣術を主とした戦闘技を披露,大いに壮士の志気を鼓舞していった.

 ここに再び多摩の生んだ伝統剣法天然理心流(てんねんりしんりゅう)が颯爽と登場してきた.天然理心流は,幕末,京都を中心に活躍した新選組局長近藤勇によって,多摩地方一帯に普及していた剣法であった.もとより実力ある剣士に不足はない.今や村々の結社は,これらの剣士を師範として迎え入れた.こうした地盤から南多摩郡川口村の川口壮士,同小宮村の小宮壮士といった,三多摩壮士の源流となるべく壮士が続々と誕生していくのである.

 1885年9月,爆烈弾数100個を持った茨城の自由党員らによって,加波山山頂に革命の旗が揚がった.その檄文は,政府の失政を激しく非難し「かくの如くにして尚ほ数年を経過せば,国連の前途将に図らざんとす,吾人豈黙して止むべけんや.それ大廈(たいか)の傾ける一木のよく支ふる所に非ずと雖も,志士仁人たるもの座して其倒るるを看るに忍びんや.故に我輩同志,ここに革命の軍を茨城県真壁郡加波山上に挙げ,建国の大義を明らかにして,自由立憲の政体を造画し,もって人民天賦の自由幸福を増進せんことを期す」(参61)と,高らかに声明した.

 彼らは「志士仁人たるもの座してその倒るるを看るに忍びんや,ゆえに我輩同志ここに革命の軍」を挙げると,敢然と言い切って武力をもって明治政府に抵抗したのである.

 この蜂起は数日のうちに鎮圧されたが,東日本の自由党員,特に三多摩の民権家には大きな衝撃を与えた.その現れとして多摩の民権家はこの蜂起に対して深い同情を持ったようである.それを示すものとして,石坂昌孝は,八王子広徳館長林副重とひそかに連絡をとり,落ちてくる加波山志士をかくまうこと,関連逮捕の恐れのある壮士を五日市など安全な地帯に逃がすことなど指令していたという.

 実際に,加波山挙兵の一人,保多駒吉(やすだこまきち)が八王子に潜入したとき,林は警察の目の厳しい広徳館を避け,小林儀兵衛に連絡して,保多をかくまわせたうえ,深夜甲州路へ脱出させている.(参62)また,この蜂起に遅れて参加できなかった加波山グループの一人久保田久米は,神奈川県会議員であり,相州の代表的民権家であった水島保太郎から村野常右衛門の手でもって五日市の内山安兵衛宅に潜入,勧能学校へかくまわれた.この久保田が,本項の初めに書いたように,この後大阪事件に参加していくのである.

 こうした石坂,林,村野らの取った行動は,三多摩の民権家たちが加波山事件そのものに対して義挙として受け止めていたと思われる.その証拠に村野も,大阪事件に連座していく.このことは三多摩の民権家の中に,圧制政府転覆のための武装蜂起が暗黙の内に認められていたことを示していよう.それだからこそ剣術が結社の中で重要な訓練のひとつになっていたのである.

 9月,加波山事件,11月に秩父事件が起こるや自由党はついに解党するという事態に立ち至った.また,自由党と拮抗する形で民権運動を押し進めてきた立憲改進党も,こうした社会的状況に反応,嚶鳴社の沼間守一の必死の引き止めにもかかわらず大隈重信,河野敏鎌(こうのとがま)らが脱党,事実上解党した.

 このとき多摩の自由党は無傷の状態であったが,しかし,自由党の決定に従った.ここに自由民権運動の退潮が表面化してくるのであるが,これに拍車をかけるように松方財政の情容赦ない政策が,より激しい反政府運動を誘発した.正に,大阪事件はこうした社会的経済的背景のうえに生じたのであった.

 板垣退助ら自由党内穏健派による消極的政策によって解党に追い込まれた自由党内で,大井憲太郎,小林樟雄(こばやしくすお),磯山清兵衛(いそやませいべえ)らを主流とする急進派グループは,政府打倒に朝鮮問題を利用しようと謀った.すなわち自由党解体後自由民権運動の敗退と挫折をどう回復しようかの問題をも含み込もうとしたのである.

 1885年12月,甲申(カブシン)事変が起こった.この事件で日本人居留民が遭難を受けたとの一方的な報に,人民は激昂,熱烈に清国との開戦論を主張していった.中でも旧自由党員の動きは激烈であった.『自由党史』によると土佐では「板垣,片岡の先進,全県の人心を董卒(とうそつ)し,各社各郡の有志を統べて義勇兵を編制し,昼夜操練に怠らず,1日全軍を帥(ひき)いて高岡仁淀磧に群講す.片岡健吉其総指揮たり,士気頗(すこぶ)る振ふ」という状態であった.

 また,有一館の生徒は「国民が絶叫する開戦論に気勢を添へるが為め,飛鳥山に大運動会を開くことになった,武相の自由党員及び之に属する壮士を始め,近県の党員は雲の如く集まり来って之れを推し立てて銀座街路を繰行く」(参63)有様であった.東京築地に建てられた有一館とは,1885年8月に自由党本部が文武道場として開設したものである(だが,内容は革命の実行部隊養成を目的としていた).多摩をはじめ神奈川県下の民権家の反応も例外ではなかった.愛甲郡の民権家天野政立も土佐と同じように義勇兵の募集を行っていたし,高座郡座間村の菊田粂三郎も,神奈川県懇親会の席で義勇兵募集の提案をしようとしたと,後大阪事件で逮捕され,公判で陳述している.

 こうした朝鮮での事件が,人民の激昂と清国への敵愾心とを横溢させたことを,大井は冷静に受け止めていた.そしてこの噴出する人民のエネルギーを国内改革に利用しようと考えた.すなわち,再び朝鮮独立党(開化派)にクーデターを起こさせ,その結果日清間に緊張を作り出させ,そのすきに一挙に国内を改革しようとする計画を立てたのである.これがいわゆる「朝鮮革命義挙」の大阪事件と呼ばれた陰謀の筋書きであった.

 大井を中心として,小林樟雄,新井章吾,磯山清兵衛など旧自由党員は行動を開始した.大井と磯山は,当時有一館に派遣生として在京していた大矢正夫,霜島幸次郎(しもじまこうじろう)らに景山英子を通じて,資金集めのため三多摩,相模地方に働き掛けることを命じていた.まず愛甲郡相愛社の天野政立(あまのまさたつ),難波春吉(なんばはるきち),佐伯十三郎ら10余名が加盟した.高座郡では山本与七らが,淘陵(ゆろぎ)郡では水島保太郎らが加わっていった.この当時のことを景山は自伝『妾(わらわ)の半生記』の中に書いている.

 三多摩の民権家は大阪事件に大きな役割を果たした.浅川の小林儀兵衛や,川口村の秋山国三郎の家を足場として,大矢,磯山,景山が盛んに工作していた.五日市に滞在していた壮士たちもこの非常手段の実行隊員として行動を開始したのである.五日市の勧能学校は二代校長千葉卓三郎が死んだ後,三代校長に高橋格が赴任.先代までの校長,助教らによって作られていた自由奔放な空気を一新し,厳格な,いわゆる公的な秩序のある学校にしようと努力していた.しかし各地から潜入する青年壮士たちの格好のたまり場となっていた勧能学校は,依然「全国浪人引受所」の観を改めなかった.

 それどころか,校内の空気は一層過激性を増し,利光鶴松をしていわしめれば,「校内ニハ共産主義ガ実行サレタリ」(参64)という状態であった.これは教員の給料をみんなで分配し合って使ったというような意味であるが,彼らの行動の自由を保障していたところに五日市の開明性があったといえる.このことは,在地の民権家深沢権八や内山安兵衛らもこのたくらみ(大阪事件)を容認していたらしい.惜しみない資金援助をしているし,後に久保田久米が強盗の嫌疑で裁判にかけられたとき,地域ぐるみでアリバイ工作をして無罪にしていることでも明らかになろう.

 また,北村透谷(きたむらとうこく)が親友の大矢正夫に強盗の参加を求められて驚愕したというのは,丁度このようなときであった.しかし非常手段とはいえ,強盗という社会的,倫理的に許されない行動に参加することは彼にはできなかった.透谷は自ら頭髪を剃り落とし,政治から身を引くことを誓って,打ちひしがれた姿を同志の前に現したのである(参65).

 このように,強盗という非常手段まで行って革命を起こそうとしたのには,多摩の民権家たちが,自らの行動をあくまでも国内改革の義挙として受け止めていたからであった.しかし,この事件も中央幹部の杜撰な計画と,幹部磯山清兵衛の逃亡といった裏切り行為によって,1885年(明治18)11月ついに発覚,全員逮捕となった.これによって,三多摩旧自由党は大打撃を受け,この地方における民権運動もこの後大きく後退していくのである.



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3.3 変質する自由民権運動