5.1 第一次世界大戦下の多摩
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5.1.2 米騒動の勃発

(1)露呈する社会矛盾

 戦争景気でぼろもうけした成金が社会をにぎわせていた中で,その陰では生活に困窮する人々の増加もみられていた.確かにこの戦争景気は労働者の賃金にも恩恵はあったが,物価の上昇は労働賃金を確実に上回っていった.1914年物価指数を100とすると,17年は,179,18年には230であるのに対し,賃金指数は17年が127,18年には157にしかならず,逆に実質金指数は71から68へと低下するといった状況であった.

 当時の世相を添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)は「ノンキ節」中で次のように歌って諷刺している.「貧乏でこそあれ日本人はエライ,それに第一辛抱強い,天井知らずに物価はあがっても,湯なり粥なりすすって生きている」と.

 こうしたインフレは庶民生活の土台である米価の高騰に大きく反映した.もっともこの値上がりは凶作によるものでなく,シベリア出兵を見越した米商人の投機と買い占めに原因があった.1918年8月にはなんと米の小売価格が戦前1升12銭から4倍の1升50銭に達したといわれる.このような社会状況が,シベリア出兵の不安とも結び付いて,全国各地を席巻した米騒動へと発展したのである.

 1918年7月23日,富山県中新川郡魚津町の漁民の女房たちが,県外へ移出する米の積出し阻止を行ったことから起こった米騒動は,米の安売り,生活困窮者の救助などで要求する大衆行動へと発展した.そして8月5日,このことが新聞報道されるや10日,京都,名古屋といった都市を中心に15日ごろには,農村,地方都市,炭鉱地帯を巻き込んで全国へと波及した.都市における行動の主体は無産大衆で,特に奈良,京都では多くの被差別部落の人々が参加,先頭に立っていた.

 また,広島県の呉では工場労働者が米騒動の主力であった.こうした労働者たちはこの行動を通じて賃上げも要求,ストライキだけでも全国で108件に及んだという.こうして7月23日から米騒動が鎮圧される9月17日で38市153町178村,大衆行動に参加した民衆の数は数百万人に及んだ.事の重大さを認識した政府は9万2,000人の警官,軍隊の動員により,治安に当たるとともに,各府県に指令を発し,富豪の寄付金による米の廉売をさせるとともに,恩賜金300万円,国費1,000万円を米価対策に支出して鎮静に努めた.

 東京府への恩賜金は30万5,000円であったがそのうち三多摩の配分額は八王子3,512円,北多摩郡8万9,169円,南多摩郡6,902円,西多摩郡5,825円87銭であった(参107).また,八王子では,八王子慈善協会が市内の有志から寄付を集め,米を毎日細民に廉売したが,人員1,312人にも及んだという.府中町では「外米廉売は18日80袋着荷したれば19日,町役場に常設委員会を開き協議の結果,今日20日,明21日との両日に亘り毎日午後4時より午後7時迄同町府中尋常高等小学校に於て第1回の廉売を開始するに決し,時価1升21銭9厘の蘭米を15銭にて1戸に1升券5枚宛を交付し各戸5升宛の割合にて販売する方針の購入金の不足額は町の有力家……を始め多数篤志家の寄附金を以て之に充て引続き実行する計画」(参108)であった.

 警官,軍隊の出動は各地に市街戦の様相を呈し,市民に多くの死傷者を出した.しかし組織と武力を持たない大衆は,各地で短期間に鎮圧され9月17日こは全国ほぼ平常に戻った.この事件は大衆の自然発生的に起こったものであったが,インフレによる米価高騰による騒乱は単に切っ掛けに過ぎず,その裏には独占資本,寄生地主による労働者,小作農村の激しい抵抗があり,それをプチブルジョア層が支援するといったものであった.こういった性格を持った米騒動は,寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣を辞職に追い込み,ここに日本最初の政党内閣原敬内閣を誕生させるに至るのである.



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