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(1)強まる軍部の発言力
1931年(昭和6)9月18日,柳条溝の南満州鉄道線路爆破事件を契機にして興った満州事変は,翌32年には満州国を日本のかいらい政権として誕生させ,さらに33年の国際連盟脱退をするなどといった一連の行動の火付けとなっていった.そして1937年(昭和12)7月7日,宣戦布告なき日中戦争に突入することによって,戦線は拡大され,国民を長期戦の泥沼へと引きずり込んでいったのである.これは日本帝国主義のアジアへの侵略開始であり,国内において慢性的不況からの脱出とともに,軍国主義化への第一歩でもあった.
ここで国内の動きを追ってみよう.満州事変の勃発とともに,軍備の拡張を主眼に戦争体制を整えようとしていた軍部や右翼の動きは,このころから政党政治に対して反感を強め,その行動はテロといった手段によって表現されるようになっていった.まずその現れとして,1931年10月,陸軍将校らの手によって軍部政権樹立の陰謀が企てられた.十月事件である.さらに翌32年2月には前の蔵相井上準之助,3月には三井の大番頭団琢磨の暗殺(血盟団事件),そして5月には海軍の青年将校,陸軍士官学校生徒,右翼の手によって犬養毅首相を射殺する5・15事件と政党政治に対するテロは続いた.
こうして,1936年(昭和11)2月26日,陸軍青年将校の一団によって起こされたいわゆる2・26事件は,蔵相高橋是清,内大臣斉藤実らの暗殺によって政党内閣制にとどめを刺すことになった.この事件によって岡田啓介内閣は倒れ,広田弘毅内閣が誕生したが,その組閣には軍部の強い意見が反映し,内閣の存立に軍部の権限が強化されていった.こうしたファシズム勢力の台頭は,当然のように国内では共産主義者や自由主義思想を持つ人々に対する弾圧も苛烈になっていった.治安維持法によって数千の活動家や思想家が逮捕され,ひどい拷問のうえ転向を強制された.またこの取調べの最中死に至ったものも決して少なくなかったのである.
(2)多摩に集中する軍事施設
戦争の拡大は三多摩にも大きな影響をもたらしていった.近代戦は今までのような単なる歩兵戦ではなく,各種の近代兵器,兵科要員が必要不可決の要素でありそのための準備がなされねばならなかった.1935年を過ぎると,三多摩には続々と軍事施設が生まれた.それは広大な平坦台地を持ち,東京へ一時間以内といった交通の便の良いことが三多摩に多くの軍事用地を生んだ原因であろう.中心的地域のひとつは中央線沿線に,また小田急線の相模原台地に,そして海軍施設の集中した大和地区であった.
ちなみに三多摩及び相模野に集中した軍事施設を挙げてみるならば,まず教育施設として座間に陸軍本科士官学校,八王子に陸軍中央幼年学校,小平に陸軍経理学校,相模原に陸軍通信学校,陸軍機甲整備学校,陸軍兵器学校,立川に東京陸軍少年飛行兵学校などがみられる.航空基地としては,大和に海軍厚木基地,相模野海軍航空隊,第二相模野海軍航空隊,立川に陸軍立川基地,調布に陸軍調布基地,福生に陸軍航空審査部飛行場などが設けられた.工廠は相模原に相模原陸軍造兵廠,府中に陸軍燃料廠,立川に陸軍獣医資材本廠,稲城に多摩火薬廠,大和に高座海軍工廠などである.
また,軍需大工場としては,中央線沿線に多く新設され,後には疎開の工場も増加していった.その中でも最大のものとしては,三鷹に造られた中島飛行機武蔵野工場で,1944年以降はアメリカ軍爆撃機B29の格好の攻撃目標として爆撃を受けたところである.この外にも航空機工場は造られ,例えば,立川に立川飛行機,昭島に昭和飛行機,国分寺に日立航空機,狛江に東京航空計器,武蔵野に航空化学工業,日野に航空写真フィルム専用の六桜社日野工場,横河電気(航空計器)などがあった.その外にも戦車は日野に東京自動車(後の日野自動車),府中に日本製鋼武蔵製作所,機関銃部品としては日野に吉田時計日野工場などが兵器生産を行っていた(参132).また軍事施設としては昭和初年,多摩丘陵を利用して造られた町田の戦車道路や地下トンネル式弾薬貯蔵庫が挙げられる.民間企業の疎開も多くなり,民需工場も軍需工場に転換しつつ年を追うごとに続々と三多摩地区に増えていった.このことは,府中町の人口が1937〜38年1万2,000人足らずであったのに,1941年には2万2,000人に増加し,その多くが軍需工業に従事する来在者であったことでもわかろう(参132).このように,三多摩は戦争の拡大とともに軍事施設のラッシュが訪れたのである.
(3)庶民の哀歓
泥沼化した日中戦争の惨禍は,1937年12月13日,南京を占領するまでに,既に日本軍だけでも戦死1万8,000人,負傷者5万2,000人の犠牲者を出していた.こうした日中戦争の長期化に伴って,日本は,さらに多くの兵士を中国戦線に送らざるを得なくなっていた.そのために町や村からは,働き盛りの男子が一枚の「赤紙」(召集令状)で,続々と軍隊に召集されていった.召集を受けて,父や夫や息子を戦場へ送り出す家が急速に増加し,応召兵士の歓送風景が至るところで見られるようになっていくのである.“天に代りて不義を討つ忠勇無双のわが兵は……(日本陸軍)勝ってくるぞと勇ましく誓って国を出たからは……(露営の歌)”.このような歌が盛んに歌われ,出征兵士たちは,肉親に別れを告げて「祝応召」ののぼりに囲まれ「万歳」の歓呼に送られて入営していった.
南多摩郡多摩町(現在の多摩市)では11月に入ると86人もの応召兵を教え,1回に10数人もの兵士の壮行式が行われた.その席上軍人分会長は次のような祝辞を述べている「支那事変勃発以来,我が勇武なる陸海軍は,幾多の険難を排して,北支・南支を問わず多大の戦功を収めつつ茲に既に三ヶ月余,然れども暴戻頑迷なる徒輩は今尚我が国の真意を解せずして其の戦局の推移は余側し得ざる状態であります.此の時に当り君には御召しにより,本日茲に勇躍征途に上ることは誠に武人の本懐,且又一家一門の栄誉,我が郷党の誇と存じます,然しながら波の地は寒暑共に激甚,其の労苦を思う時,全く感謝感激の外ございません.どうぞ御出征後は,特に健康を重ぜられ,充分御闘奮下さる様,輝く勲武を多肩に再び此処に相見えんことを希ふ次第であります……」(参133).
しかし,父や夫を息子を送り出す家族たちは,表向きは「お国のために立派に戦って下さい」といいながらも,心の中では愛する人の無事を願ってやまないのが人情であった.そのため,街頭に立って,町ゆく人々に「千人針」を頼む姿が,ここかしこに見られた.
だが戦争は,天皇と国家の名において,このような国民の心情を全く無視し「滅私奉公」の精神を強要した.国民もまた,建前としては,それを受け入れていかざるを得なかったのである.
1939年(昭和14)に流行した歌謡曲「皇国の母」(深草三郎作詞)は屈折した国民の心情をこのように歌っていた.
ご無事のおかえりを待ちますと云えばあなたは雄々しくも こんど逢う日は来年四月靖国神社の花の下
また,内閣情報部は1937年9月,国民の愛国心昂揚のために愛国的歌曲の歌詞を広く国民から募集したところ,なんと5万7,578編の応募があった.この中から森川幸雄の作品が当選,12月に瀬戸口藤吉が作曲して「愛国行進曲」として発表されたのである.「見よ東海の空明けて,旭日高く輝けば」と始まるこの「愛国行進曲」は,山田耕筰の編曲,東京音楽学校の演奏によりレコード化され,コロンビアから発売された.ラジオ放送による普及や,政府の大々的な宣伝の効果もあってか,このレコードは,たちまちのうちに100万枚を売り尽くし,国民の「愛国心」の高まりに重要な役割を果たしていった.
「愛国行進曲」のヒットは,軍歌や軍国歌謡の流行に油を注ぐことにもなり,ラジオやレコードを通じて,町々に広められた.出征兵士を歓送する歌となった「露営の歌」(藪内喜一郎作詞,古関裕而作曲)をはじめ,「皇軍大捷の歌」(福田米三郎作詞,堀内敬三作曲),「軍国の母」(島田磬也作詞,古賀政男作曲)などが代表的な曲である.
また,ラジオが政府の統制下に,国民の戦意高揚に果たした役割も大きかった.1937年10月13日から1週間,ラジオは特別番組を組んだ.午前10時から20分間,「国民朝礼」の時間に「宮城遙拝」を呼び掛け,昼と夜には時局講演を放送していった.朝の「国民朝礼」の時間と,夜の「国民唱歌」の時間には,「海行かば」(『万葉集』巻18所収の長歌,信時潔作曲)が放送されたが,この歌はその後も度々放送されて大平洋戦争中には「玉砕」などの悲報を伝える臨時ニュースの冒頭にも使われていったのである.
(4)窮屈になる国民生活
1937年(昭和12)9月10日,近衛文麿首相ら政府首脳は,「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」などのスローガンを掲げた「国民精神総動員」の一大演説会を,東京の日比谷公会堂で開いた.そして10月12日には,国民精神総動員中央連盟が結成され,日中戦争の遂行に必要な国家総動員体制を,国民生活の場や精神的側面から強化するものとして国民精神総動員運動が大々的に展開されていった.
すなわち,国民を戦争政策に協力させるために,天皇への忠誠と国家への奉公(尽忠報国)を強調し,国民が一体となって戦争の遂行に力を合わせ(挙国一致),いかなる困苦にも耐え忍ぶ精神(堅忍持久)こそが,何よりも大切であると説いた.具体的には,消費節約,貯蓄奨励,勤労奉仕,生活改善など説かれ,その実践によって,戦争体制の強化を図るために,国民の協力が求められたのである.
東京では,東京府国民精神総動員実行委員会によって,「日本精神の発揚」「社会風潮の一新」などの実践要目が掲げられ,府民に対する教化運動が進められた.また日中戦争前に出版された『国体の本義』が,文部省によって全国の小学校から大学に至るまで頒布された.文部省は,「万世一系」の「天皇」を中心とする「国体」の意義を,教育を通じて理解させることによって,日本と日本国民の「歴史的使命」を自覚させようとしたのであった.
こうして,近衛内閣は,1937年10月25日,企画庁と資源局とを合併して,内閣直属の企画院を創設した.その目的は,物資総動員計画の立案,及び経済統制の強化にあった.このように,国民精神総動員運動は,国民生活や精神の面だけでなく,経済,資源の面からも統制を強化して,国民精神総動員体制の土台を固めていったのである.
また,日中戦争の長期化は,国民の日常生活に必要な物資の不足をもたらした.金属類の統制が厳しくなったため,鍋(なべ)や釜の製造が減少し,家庭では,古い鍋釜を直して使うので,いかけ屋が繁昌し,スプーンも竹製が用いられ始めた.子供のおもちゃなども,金属製に代わって,セルロイド製や紙製,木製のものが登場し始めた.ガソリンの不足も目立ち始め,自動車が走れなくなったことから「木炭自動車」といった傑作が現れたのも,物資の不足が著しくなった統制時代を反映するものであった.
農村では,寄生地主制の制約と,労働力の不足とによって,米の収穫高が減少し,さらに外米の輸入が激減したこともあって,国民の食用に回す米が少なくなってきた.当然酒造用の米も節減されたので,酒造業者は大きな打撃を受けた.1939年(昭和14)の酒造石高は,前年の20%も減ったのである.
嗜好品の減少はまだしも,国民の生活必需品の不足は影響が大きかった.例えば衣料品は1938年6月に,綿製品の製造が制限された.それを知らせる号外が発行されるや,人々は小売店やデパートに殺到し,在庫の綿製品を争って買い求めたという.この後は,綿に代わって「スフ」(ステープル・ファイバーの略)の製品が出回り,はばをきかせていった.
日常生活に必要な消費物資の不足は,統制の裏をかいた闇物資の横行と,物価の高騰をもたらし,インフレに拍車をかけた.このため政府は1937年に暴利取締令を発し,38年には公定価格を定めたが,物価上昇の勢いはとどまることがなかった.
こうして1939年10月18日,国家総動員法に基づいて価格等統制令,地代家賃統制令,賃金臨時措置令などが公布された.これは価格,賃金などを9月18日の水準にくぎ付けするもので,「9・18ストップ令」と呼ばれた.ねらいはインフレの抑止にあったが,生活に必要な物資の生産と供給が進まないわけであるから,賃金の引き上げを抑えられた国民の生活は,闇物価の高騰する中で,ますます苦しくなっていくばかりであたっのである.
こうして1940年(昭和15)には,米,味噌,醤油,塩,砂糖,マッチなど10品目に切符制の採用が決定され,新体制の掛け声の下に迎えた翌41年には,この傾向がさらに進んで,国民に耐乏生活は強制された.4月1日から,東京,大阪の6大都市では,米穀の配給通帳制および外食券制を実施し,米は成人の1日分が二合三勺とされ,食堂に入るにも外食券が必要になった.主食の米が配給通帳制を採ったのは,1940年度の米の実収高が約5,200万石で,その前年より約800万石も減収となり,朝鮮や台湾でも平年作を下回ったことにもその原因があった.
主食の統制と並んで,副食の魚肉や野菜も,その量が不足していた.5月8日に初めての肉なし日が行われ,これ以後毎月2回のこの日には,肉屋や食堂は肉類を一切売らなくなった.また野菜の不足が著しくなったため,東京市内では,野菜の行列買いが始まった.
また,食料品以外の生活必需品も,なかなか手に入りにくくなった.米穀の配給通帳制に続いて,5月には,家庭用木炭が配給通帳制となり,また清酒も切符制が採用されて,世の上戸たちを悲しませた.さらに,東京では,たばこの1人1個売りが厳しく守られて,これも愛煙家を嘆かせた.そして東京市では9月1日,砂糖,マッチ,小麦粉,食用油の集成配給切符制を実施した.このように,耐乏生活が強まるとともに,隣組の果たす役割が大きくなり,国民は,この面からも隣組に深く組み込まれていったのである.