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まず1・2の事例を挙げながら流域における稲荷信仰習俗の実態を述べよう.
事例T 青梅市の場合(参21),青梅市では旧調府村大荷田,旧小曽木村厚沢・小布市などで鎮守の境内神として部落全体で稲荷を祀るほか,屋敷神としての稲荷もみられ,旧成木村.中里では屋敷神を祀る8軒のうち7軒が稲荷を祀り,旧小曽木村厚沢では9軒のうち3軒で稲荷を祀っている.稲荷の祭りは2月初午に行われ,赤飯・あぶらげ・なまぐさなどを供え,五色の色旗や小旗を飾る.部落が祀るところでは稲荷講のオヒマチと称し,神主を.呼び毎年まわり番で宿を持って集まる例や,オブスナ様に集まってけんちん汁・酒などでお祭りをする例もある.子供達は稲荷の祠近くに小屋掛けしたりヤグラを組んだりして夜遅くまで楽しむが,太鼓をたたきながら各戸を回ってお金をもらって歩いたり,榊の先に御幣をつけたものを持って「まいこんだ,まいこんだ,福の神がまいこんだ」と唱えながら各戸を回って歩いた地域もある.稲荷も百姓の神といわれているほか,旧霞村今井では七社権現の境内に祀る稲荷社に祈願をすると子供がさずかるともいわれ,養蚕が盛んであったころには蚕の神として信仰されていたという.
事例U 世田谷区の場合(参22),区内の旧廻沢村では氏神として稲荷神社を祀り,9月26日(以前は10月4日)に喜多見の氷川神社から宮司を呼んで祀りをする.この日は祭りの余興としてお噺子をしたり,かつては船橋村から神代神楽を呼んだこともあった.また,屋敷神として庭の隅や鬼門以外の屋敷裏にウチミヤと称して稲荷を祀る家もあり,上北沢や瀬田では2月初午に稲荷講のお日待をしており,かつてはオビシャと呼んだところもある.
事例V 府中市の場合(参23),『府中市史』下巻の神社一覧によれば,稲倉魂神を祭神とする稲荷社が7社ほど祀られている.また四方固めと呼ばれる稲荷もあり,屋敷神として稲荷を祀ることが盛んで,10軒のうち4,5軒は稲荷を祀っているともいわれ,稲荷が祀ってあれば旧家とみることができるという.稲荷の祭りは初午の日で,稲荷を産土神とする人見地区ではビシャ講(歩射講)が行われており,一般の農家で屋敷神として祀る稲荷の社前に五色の幟を立て,油揚・鰯の目刺・豆腐・赤飯などを供えて祀る.
かつては子供達が町内単位か,大きい町内であれば2つ程度に分かれ,稲荷を祀る近くに小屋掛けし「正一位稲荷大明神」と書いた小旗を納めるとともに,男の子は泊り込んで夜っぴて楽しく過ごしたものであったという.このときは13・4歳の子供が大将になり年下の子供達を指図をして「ちょうちんや饅頭,ローソク代おくれ」といって各戸を回らせお金をもらい,そのお金でローソク・お菓子などを買い,甘酒などを作ったという.
以上,3地区の稲荷信仰の実態をみてきたが,2月初午を稲荷の祭日とする点や,地区全体・地区内での講祀祭・屋敷神としての稲荷と,レベルの異なる3つの祭祀形態が認められること,なかでも屋敷神として祀ることが最も多いなどは,ほぼ3地域に共通している.しかしながら,初午が必ずしも稲荷と結び付いていない例もある.丹波山村(参24)では2月初午の日にマユダマを飾り,押垣外地区ではかつて織り姫を祀る女の祭りがあったが,絶えて行われなくなったといい,小菅村長作(参25)でもウチガミ(屋敷神)に稲荷を祀ることがみられるものの,2月初午・2の午にはまわり番で宿を持ち,ボタモチ・団子・ケンチン汁を作って蚕神を祀るオヒマチをするという.こうした例は上流地区の他の部落でもみられることからして,上流地域の山間部においては中流・下流地域ほど稲荷信仰が普及しなかったものと推定される.
屋敷神として稲荷を祀ることは,関東地方全般と同じように多摩川全域においても多い.けれども,すべての家で祀られているというものでもないことはいうまでもなく,府中市で稲荷を祀る家は古いといわれる例や,別図(図7.1.1)に示した東久留米市の例のごとく,本家や古い分家筋に祀られ比較的新しい分家では祀ることが少ないという傾向がみられる.東久留米市(参26)の屋敷稲荷は屋敷の裏手に祀ることが多く,木製・石製の祠よりも毎年2月の初午ごとに竹で骨組を作り,藁で屋根を葺く形態のほうが古いものとされ,屋敷稲荷よりも講形態をとる稲荷祭礼のほうが古いのではないかとも考えられている.
一体に多摩川流域で祀られる稲荷は,百姓の神・作神といわれるごとく農耕神として信仰されることが支配的であり,屋敷神として祀られることから屋敷の守護神と考えられることも少なくない.そのなかで,稲荷はおこりっぽい神様であることが,稲荷は非常に腹だちの神様で,命まで奪われることもあるが,これを祀っていると屋敷を守ってくれる,あるいは一番腹をたてる神様は稲荷であるとする伝承など,祟り神的要素もかなり認められることは注目される(参27).さらに先に述べた青梅・府中両市の稲荷祭祀のなかで,子供の行事と結び付いていること,大人の行事であったものの一部が子供の行事に移ったものか,あるいは稲荷信仰の性格のなかに子供の行事と結び付く要素があるのかどうかなどの点で今後に問題を残している.
いずれにしても,多摩川流域における稲荷信仰の展開を考えるときは,先に述べた関東地方の稲荷信仰や江戸の稲荷信仰との関連が無視できない.これまで述べてきたことでも明らかなごとく,流域の稲荷信仰も屋敷神として祀られることが多いことは,関東一般の様態と同様である.屋敷神としての稲荷は,近世以降のある時期に一種の流行神的性格をもって普及したとも考えられ,祖霊=田の神→稲荷という展開,つまり祖霊あるいは田の神信仰と結び付いて屋敷神として稲荷が祀られるようになったとされ(参28),関東地方の屋敷神としての稲荷信仰は江戸を媒介として普及したであろうとする考え方もあることは前述したとおりである.一方,近世期江戸における稲荷信仰は,宮田登(参29)による農業神型・聖地型・土地神型・屋敷神型・馮[つ]きもの型の五種類に分けることができ,農業神型・聖地型・土地神型の稲荷信仰は江戸時代前期までに出現し,屋敷神型・馮きもの型は江戸時代中期から後期において流行神的性格をもって現れたとされている.
こうしてみると,多摩川流域の稲荷信仰の普及も大きく2段階に分けることができるのではなかろうか.つまり,第1段階は時代的にも古く,村の開発に伴って勧請されたり宮田のいう農業神型・聖地型・土地神型などに属するもので,青梅市住江町で祀る住吉神社の境内社としての稲荷社が,地主神と呼ばれ住吉神社奉祀以前の地の主であったとする伝承(参30)や,府中市で四方固めと呼ばれ祀られている稲荷の内側が昔の府中であったとする伝承などがその一例といえる.第2段階は時代的にも下り,主として屋敷神として稲荷が多数祀られるようになった時期で,多摩川流域をはじめ関東地方全般における稲荷信仰の流行神的隆盛が大きな影響を与えたものと思われる.