3.1 ムラと講集団
前のページに戻る 次のページを見る 目次に戻る 表紙に戻る

第3節 講集団

3.1 ムラと講集団

 講の類別 多摩川流域においても,他の地域同様多種多様な講集団がみられ,同一のムラの内部に幾つもの講集団が併存していることが一般的である.民間信仰の一形態としての講集団は,いうまでもなく信仰を目的に結成されたものであるが,娯楽的要素を含みながらも,集団内部の結束を強める機能を有し,その集団がムラ組織あるいはムラの内部区分と一致している場合には,ムラ社会統合のうえで大きな役割を果たしており,事実こうした機能を有している講集団が多い.

 講集団は,幾つかの規準によって分類することができ,流域においても例外ではない.まず崇拝対象の所在によって類別されることが一般的で,それにはムラ社会内部で完結するタイプ(完結型)と,崇拝対象がムラ社会の外にあり,そこへの参詣を目的とするタイプ(参詣型)とがある.後者の場合は改めて論じることにするが,講員のうち毎年数人ずつが参詣する代参講が多く認められる.前者の場合,流域においては稲荷講・念仏講・庚申講・オシラ講・山の神講・天神講などがかなり広範囲に分布している.このうち,稲荷講・庚申講などは上・中・下流の流域全体を通して認められるが,山の神講・オシラ講などは主として上・中流地域に分布している.また講集団には男女別の講もみられる.一般的にムラ社会が家の戸主,つまり男性を中心として運営されているのと同様に,講集団の多くは家の戸主層を中心に執行されているものの,女性の集まりとする講がある.女性の講としては,安産祈願など出産と結び付いたものが多いが,蚕神を祀るオシラ講は主として女性の講とされており,念仏講も高齢者の女性の集まりとしているところが少なくない.年令集団と結び付いた講はあまり認められない.そのなかでは,天神講が子供達の集まりとするところが多く,丹波山村の例(参31)では子供組の行事の1つとして,1月15日に世話ずきな家を宿とし,ムラの各家から集めた米や金で煮炊をするといい,小菅村長作(参32)の例では1月25日に子供達が天神様の祠に書初めを持っていって納めるという.このほか,職業別の講もみられ,流域においては先に述べたごとく山仕事や林業に従事している人達が山の神講を結成しており,川漁や川関係の仕事に従事している人達が水神講,屋根屋や大工などの職人達が聖徳太子を祀るという太子講,かつて馬を使ったころに運送業に従事していた人々が観音講を結成していたという例などが報告されている.また宗派別の講としては,日蓮宗に所属している人達が題目講を結成している.

 これら流域にみられる講集団の全体的傾向としては,本章冒頭で述べた府中市人見の例にみるごとく衰退の一途をたどっているが,そうしたなかで,ムラ社会で完結する完結型の講集団よりもムラ社会外へ参詣する参詣型の講集団のほうが比較的継続されている例が多いといえるのではなかろうか.けれどもムラ完結型の講が発達しなかったというのではなく,今日に伝えられている碑塔類を考え合わせると,庚申講・念仏講をはじめとする完結型の講集団のほうがより盛んなものがあったと考えられる.ということは,参詣型よりも完結型の講集団のほうの衰退する度合いが著しいといえる.その要因については明らかではないが,全体として講集団の衰退してくるなかで,ムラ社会外への参詣講のほうがムラ社会外へ出ることの少ないムラ人にとって楽しみの1つであったこと,代参講が多いことでも明らかなごとく,個人で参詣するのにはかなりの費用がかかること,信者をつなぎ止めようとする社寺側の意図が働いていること等々によって,参詣講のほうが比較的今日まで継続されてきたのではなかろうか.

 以上,多摩川流域の講集団について概観してきたが,次にムラ社会内部で完結する講(完結型)について,その代表的なものを取り上げ,講祭祀のあり方を検討していくことにする.なお,流域においては,神々の祭祀を中・下流地域ではオビシャと呼ぶ場合が認められるものの,全体としてはオヒマチと呼んでいることが一般的で,講祭祀も単にオヒマチと呼ぶ例もみられ,さらにはオヒマチ講と呼ぶような講名称となっている場合もある.

 庚申講 この講は庚申信仰に基づくもので,61日目ごとにめぐってくる干支の庚申の日に行事が行われる.庚申信仰は道教の三尸(し)の説に基づくともいわれ,人間の体内にいて人間の早死を願っている三尸という虫が,庚申の夜に体内より抜け出し天帝にその人の罪過を告げて早死にさせるため,夜を徹して身を慎しまなければならないとされており,そのため色々な禁忌を伴うことが多い.日本における各地の庚申講の行事をみると,正月の初庚申やその年の最後の庚申が盛んであること,夫婦の同衾を禁ずるなどの禁忌習俗が顕著であること,戸主の集まりとされ信仰機能ばかりではなく,組やムラの相談ごとをする場となっていること,塚を築くことなどの習俗が広くみられる(参33).

 流域にみる庚申講の一例として,品川区旧桐ヶ谷村谷戸(やと)の例(参34)をみよう.毎月1回申の日に庚申講が行われており,宿は交替で務め,食事用の本膳を共有していた.当番に当たった家は各家より米5合とお金を集め,白米の御飯と料理を作るが,その料理は煮しめを中心とし,里芋・蓮根・椎茸・雁もどきなどの5品の材料を使うしきたりになっていたという.講は夜の7時ごろから始まり,各家の主人が出席する.宿では座敷に庚申の掛軸と供物を供え,燈明と線香をあげる.全員がそろうと会食し,その後世間話や農事の相談などして午前1時ごろまで過ごしたという.

 庚申講は旧藩制村単位に結んでいることが一般的で,主として戸主が集まり宿を順番に持つことが多い.夜を徹して起きていることはほとんどみられないものの,深夜に及ぶことが普通で,同衾を避けるとか,着物を断ってはいけないなどの禁忌も伝えられている.こうした庚申講は,今日では廃止されたところが多く,報告されている事例も少ない.しかしながら伝えられている庚申塔の数は多く,世田谷区の例(参35)によると,1660年〜1700年(万治3〜元禄13)までの40年間で約60基弱と庚申塔造立の最盛期を迎え,それ以降は半減し,1840年(天保11)よりの造立はみられない.また八王子市の場合をみると,1700年代に約50基の庚申塔が造立されており,なかでも1750年〜1800年(寛延3〜寛政12)の50年間に造立されたものが最も多い.小平市,保谷市の造立の時期もほぼ八王子と同じような傾向がみられ,世田谷と八王子を比較すると造立のピークを迎える時期に約100年ほどのずれがみられることは,なお今後の検討を必要とする.

 念仏講 まず小金井市本町旧土山谷の念仏講の例をみよう(参36).ここでは近年までおばあさんたちの念仏講が続けられていたが,現在では廃止されている.以前は1月と12月を除いた毎月の16日に行われ,これを「月なみ念仏」と呼んでいた.宿はまわり番で務める.宿では座敷に掛軸を掛け,花・ロウソク・線香・お茶・団子を供え,団子は講が終わると講員が分配して持ち帰った.講員は夕食後宿に集まり,木魚・鉦で音頭をとる2人を中心として1〜2時間ほど念仏を唱え,それが終わると世間話などに花を咲かせるが,巻いた掛軸で身体の具合の悪い所をさすることもよくしたといい,燃え残ったロウソクを持ち帰り,お産のときにともすとその火が消えるまでに安産するといわれている.この地域の念仏講は,おばあさん達の集まりであり,治病や安産祈願と結び付いている点で特色がある.これに対して,世田谷区廻沢(参37)ではムラを2分する南組・北組にそれぞれ1つの念仏講中があり,春秋彼岸の入りと終わり,4月〜8月までの月1回と年9回の念仏講を東覚院に集まって行う他,葬送儀礼の1つとしての庭念仏とアナバタ念仏(墓でする)とがある.このように念仏講は,ほぼムラ組織と一致しており葬送儀礼と結び付いている場合が多く,この葬送儀礼との結び付きが念仏講をして比較的今日まで存在させてきた要因といえる.

 オシラ講 オシラ講は女日待・蚕日待とも呼ばれているごとく,養蚕の神を祀る女性達の講であり,流域では上・中流地域に分布している.青梅市旧三田村沢井の例(参38)では,1945年(昭和20)ごろまで行っていたといい,女の集まりで掃き始め,あげ祭り,秋祭りと年3回ほどの集まりがあり,このときは嫁・姑と1軒の家で何人でてもよかったという.蚕神の掛軸をかけ祀るものもみられるが,全体としては娯楽的要素が顕著に認められ,養蚕の盛んであった戦前は,オシラ講も盛んに行われていたが,養蚕の衰えとともにその行事を廃止したところが多い.なお,養蚕を祀る講としては茨城県筑波郡の蚕影神社へ参詣する代参講も広くみられる.



前のページに戻る 次のページを見る 目次に戻る 表紙に戻る 文頭に帰る
3.1 ムラと講集団