3.2 中世武士の信仰
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3.2 中世武士の信仰

〔秋川流域〕

 多摩川の支流秋川の北岸に建っている大悲願寺は源頼朝を開基にしている.創建は建久2年(1191)で澄秀僧正が開山である.鎌倉時代の末ごろに衰微したが,延文5年(1360)に四世澄遍が再興し,関東管領足利基氏・氏満から秋留郷内に寺領が与えられ,後にも徳川家康から20石の朱印寺領が与えられてている.なお盛んなときには末寺合わせて32カ寺を数えていた.木尊木造伝阿弥陀如来と脇侍の千手観音・勢至菩薩は重要文化財であり,大般若経462冊は都指定有形文化財になっている.この大般若経の中には「大檀那兵部少輔正五位下平朝臣氏重」の奥書銘を持つものがあり,貞治5年(1366)2月に書写されている.氏重とは平山氏重のことで,この地の豪族である.鎌倉幕府創設の功臣にして『平家物語』にもその名をみせる平山武者所季重の子孫に当たる.季重が奉納したという絵像一幅があり,御堂を建立して奥院の本尊にしている.また,本堂前庭の一隅に白萩が植えてあるが,伊達政宗がこの白萩を一駄所望したという自筆書簡が残っている.当時の住職は伊達氏ゆかりの僧であったという.

 秋川には大悲願寺のほか,中世武士ゆかりの社寺が多い.慈勝寺(秋川市)の開基は秩父庄司重弘の娘で,下総国の豪族千葉常胤の妻であると伝えられている.室町時代に衰微したが,16世紀の初めに貴山得和尚が再興している.庭前のモッコクの巨樹は都指定天然記念物.また本堂裏手の巨樹は「ナンジャモンジャ」の木と呼ばれて親しまれている.宝蔵寺(秋川市)の如意論観世音(1寸8分)は島津冠者源忠国の母丹後局(頼朝の妾)の守り本尊であり,前立の観音像は徳川幕府老中を務めた松平越中守定信の妻伊予御前の看経仏であったと伝えている.金松寺(秋川市)の中興の開基は小田原の北条氏政.真照寺(秋川市)は足利基氏を中興開基と称している.真照寺の薬師堂は都指定有形文化財,柱はすべて根つぎされているが,この柱は古材を利用している.この建築で注目されるのは軒周りの柱上部にある肘木(ひじき)で,室町建築の典型で簡素な舟形肘木であり,禅宗建築の真髄をみせてくれる.『新編武蔵風土記稿』によると,現存建築の柱は寛平3年(891)造立のときの古柱であるとしているが,にわかには信じられない.既に文政ごろには柱などに虫穴があって古色を呈していたと記述している.当寺に伝存する棟札に「奉再興薬師堂一宇天長宝祚武運長久 攸延文元丙申年八月吉祥日 大檀那 足利氏基氏再興也」とある.しかし欠字が多く正確には読み取れない.

 岩屋弁財天(五日市町)は家康から朱印地5石を与えられていたが,足利基氏を開基とし,この地の土豪貴志氏が代々護持してきた.近くの山頂を地元では城山と呼んでおり,明らかに頂上を削平し,袖曲輪とみられる遺構が確認されている(『日本城郭史大系』第5巻参照).口伝によると貴志氏の居城とはしているが,滝山城(国史跡・八王子市)の出城または狼煙台程度のものでしかない.貴志氏の菩提寺であった同地区の引谷山妙台寺も基氏の建立と伝えられているが,開基は鏡庵妙台大姉(1442年没)であるというが,彼女についてはなんら伝わっていない.

 広徳寺(都指定史跡)は禅宗寺院の典型であり,そのたたずまいは実に幽玄そのものである.鎌倉五山の1つ建長寺の末で,盛時には末寺24,塔頭3カ寺を擁し,中世文書数点が現存している.徳川幕府から受けていた朱印寺領はこの地方最高の40石で,境内は約1万2,000坪ある.開山は建長寺住職心源希徹和尚(1403年没)中興の開基は北条氏康,大棟に小田原北条氏の家紋三ツ鱗が鮮やかである.近くの阿伎留神社(祭神は天津児屋根命)に伝存する中世文書類は写ながらこの地方の中世史を知るうえで欠くことはできない.光厳寺(五日市町)は南北朝期と思われる禅宗風の釈迦如来坐像(都指定文化財)を本尊にしている.胸部裏に「康安二年(1362)八月日法印運朝作」の墨書銘がある.開基は関東管領足利基氏,開山は学僧として高名な広智禅師(1374年没).当寺の裏山を城山と呼び中世城郭の遺構がよく残っている.滝山城主北条氏照の養父大石定久の居城とされているがさだかではない.滝山城の出城の1つと考えられる.この戸倉城よりさらに上流の檜原城(檜原村)とともに甲州武田氏の侵入を防禦するための城として築かれたものであろうか.なお檜原城主は北条氏照の重臣平山氏がここに配置されていた.

 以上は秋川流域の社寺と中世武士の関連に絞って概観したところであるが,これら寺社の創立または中興の祖としてこの地の武士階級が深くかかわりを持っていたことがわかる.特に滝山城の北条氏照や本家でもある小田原北条氏の影響が強く,かつ北条氏の家臣であるこの地の土豪層の信仰を知ることができる.

〔多摩川本流域〕

 青梅市は三田氏の城下町として発達したともいわれている.三田氏の出自はさだかではないが勝沼城を居城とした室町時代から戦国時代にかけて多摩川流域を支配した豪族であった.永正6年(1509)著名な連歌師宗長は三田弾正忠氏宗を訪ねている.宗長は紀行文『東路の津登』に「後(うしろ)は甲斐の国の山,北は秩父といふ山につゞきて,誠の深山(みやま)とは爰をや申すべからん」と書いている.かれはここに数日滞在の後,三田氏宗・政定父子に見送られて,長尾顕房の鉢形城へ向かっている.三田氏は平将門の末裔を称する豪族で,氏宗・政定時代(16世紀前半)がその全盛期であった.

 勝沼城跡の北に名刹天寧寺がある.曹洞宗高峯山天寧寺の開山は甲斐武田氏の一族に属する名僧一華文英で,三田政定が請うて招き,文亀年間(1501〜04)に創建されている.鐘楼にかかる梵鐘(重要美術品)は重厚で姿がよく,大永元年(1522)孟冬10日に鋳造された逸品で,政宗が大檀那となり,源定次が鋳造したことが銘文によってわかる.

 塩船観音寺は室町時代の建造物(観音堂・阿弥陀堂・仁王門)で重要文化財に指定されている.仁王門にある仁王像(都指定文化財)は2躯とも約273cmの優れたもので,室町時代以前の作品であり,天文2年(1533)卯月6日の修理銘がある.それによると,三田弾正忠政定とその子綱定が,家門繁栄の祈願として修補したことが判明できる.すなわち,曹洞宗天寧寺と真言宗塩船観音寺はともにこの地の豪族三田氏から信仰された寺院であり,中世武士の信仰形態がうかがえよう.

 青梅山無量寿院金剛寺は新義真言宗の寺院である.桃山時代の様式をそなえた表門(都指定文化財)をくぐると都の天然記念物に指定されている「アオウメ」が植わっている.将門手植の梅と称しているがもちろん信ずるに足らない.自然に逆らって黄熟しないこの梅と,反逆児平将門を関連づけたものであり,青梅市の由来にもなっている.開山は将門と称しているが,その末裔を称する三田氏となんらかの関係を有する寺院であろう.当寺に伝存する聖教類は都指定文化財,絹本著色如意輪観音像は重要文化財の指定を受けており,その他にも指定文化財がある.

 二俣尾にある端竜山海禅寺は一州正伊(1487年没)を開山としているが,ここに初めて草庵を結んだのは二世益芝永謙(1497年没)であり,師一州和尚を伝法開山に請うたのである.しかし,後に寺運は衰え,五世太古和尚のとき,この地の豪族三田弾正忠綱秀の援助を受けて再興している.永禄6年(1563)北条氏照に攻められた三田忠秀は本城勝沼城を支え切れず,海禅寺裏山の支城辛垣城にこもって争ったが,このとき寺院の堂塔は戦火に焼かれて灰燼に帰し,三田氏も実質的にこのとき滅亡した.境内の向かって左手崖ぎわに三田氏一族の墓(都指定旧跡)があるが,これは後代の供養塔である.

 奥多摩町丹三郎にある丹生神社の祭神は岡象女神.明応年間(1492〜1501)に丹三郎友連が勧請したという.神官は丹生氏を称し,武蔵七党の1つ丹氏の庶流であろうと考えられる.日原鍾乳洞(都指定天然記念物)は一石山神社といい,この神官家は丹三郎友連の兄丹次郎友一の勧請だという.この兄弟の父は武州大里郡(埼玉県)原島村を本貫地とする豪族原島太郎直友で,丹三郎友連は文明8年(1476)8月に原島村で生まれたという伝承がある.友一・友連兄弟は明応年間(1492〜1501)小田原北条氏の家臣となり,多摩川上流の日原村・丹三郎村をそれぞれ与えられたというが,それ以前に丹三郎の地名は既にあったという説もありすっきりしてはいない.

 旧小河内村(奥多摩町)の開発者は原島讃岐重明と伝えられている.重明は丹次郎友一の子で門覚寺の開基である.小河内村は戦国時代には甲斐武田氏と小田原北条氏の勢力の接点として常に危険をはらんでいた.川野の杉田家に伝わる古文書には,北条氏が「小河内衆」と呼ぶこの地の有力者たちを苦心しながらつなぎとめようとしていた様子がしのばれる.この小河内衆の中心人物が原島氏であった.

 武州御岳神社は山岳信仰の中心地である.「御岳山社由来記」によると承久の乱(1221)に伊勢神宮の大宮司大中臣国兼が京都方に加担した罪によって追われ,武州御岳山に身を寄せていた.次いで宝治合戦(1247)には三浦光村に味方したことにより鎌倉方に逆意を持つものとして追討の兵を向けられたが,後に許されたという.武州御岳神社には畠山重忠が奉納したと伝えられる国宝赤糸威鎧と重要文化財に指定されている紫裾濃甲冑・渡金長覆論太刀などや,都内最古の鋼製鰐口(都指定文化財)などがある.

 以上のようにみてくると,多摩川および支流秋川の流域に存在する神社仏閣はなんらかの形で中世武士と結び付いている.あるものは彼らによって再興され,あるものは彼らの手によって創建されており,中世武士階級の信仰の厚さと広がりは注目されなければならない.特に三田氏と北条氏との影響を受てけいる寺社が多いことは,単なる信仰というだけではなく,各地の土豪・百姓の支配を行うために,村落共同体の中核である寺社をいち早く掌握することによって強固なものにしようとする意図を見逃がしてはならないと考えるのである.



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