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庶民は歴史の表舞台には出たがらない.残された文献に庶民の名を求めることは困難である.文献の作成者は庶民を描くことを極力避けているように思えるのである.しかし,庶民の姿を探すことは全く不可能とはいい切れない.板碑とは板状の石造物で地方により材質や形態を異にするが,多摩川流域にみられる板碑は秩父粘板岩で通称青石塔婆と呼ばれるものである.厳密にいうと荒川上流の秩父地方を産地とする水成岩だが,武蔵国を中心に近隣諸国にも広く分布している.この他に多摩川の支流秋川の五日市町伊奈石を使った板碑もあるが分布地はあまり広くはない.東京都教育委員会は千々和実氏を団長とする「東京都板碑調査団」を結成し,昭和50年度から3カ年かけて都内全域の板碑所在調査を実施した.その結果約8,500点の板碑を確認し,多摩川流域にその多くが現存していることを確認した.この分布から鎌倉・室町時代のいわゆる中世には,多くの集落が多摩川流域に存在していたことを確実なものにしている.板碑の多くは供養碑で仏に死者の供養を願うものであり,現存板碑の約8割が「
」(キリーク・阿弥陀如来)である.このことからこの地方の中世人の大多数は阿弥陀如来を信仰していたことがうかがえるのである.
これら板碑の中で最も著名なものを挙げると,徳蔵寺(東村山市諏訪町1−1,248)所蔵の元弘3年(1333)斎蔵盛貞等戦死者供養の板碑(重要文化財)であろう.これは新田義貞の挙兵に参加して,鎌倉幕府の大軍と多摩川と分倍河原(府中市分梅町)で行われた激戦の中で戦死した飽間斎藤三郎藤原盛貞26歳と,相州村岡の戦いで死亡した同孫七家行23歳・同飽間孫三郎宗長35歳の飽間斎藤一族3名の菩提を弔ったものである.
庶民信仰をうかがわせるものを数例挙げると,文安5年(1448)8月23日付の月待逆修約20名の名を列記したもの(府中市白糸台1−12),年月不明ながら結衆26人の月待供養板碑(府中市小柳町2−31),結衆12人の名を並記した弥陀三尊板碑(多摩市貝取)のものは文安4年(1447)10月の記年がある.また文明2年(1470)11月中旬の三具足,結衆10人の弥陀三尊像板碑も同じ場所にある.八王子片倉城址にある板碑は結衆30余名の弥陀三尊像で文安3年(1446)10月の年記がある.天文12年(1543)10月5日の交名数十名の弥陀来迎画像板碑(青梅市黒沢)は完型のまま現存する見事なものである.以上のほかにも結衆板碑は多いが,その中でも圧倒的に多数を占めるものは月待板碑と,阿弥陀信仰にかかわるものであり,室町時代の多摩川流域地帯の庶民信仰を知るうえで注目されるものである.