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社寺参詣を併せた行楽は明治以降も盛んに行われたが,大正・昭和と時代が下るにしたがって,流行神となった社寺と乗客誘致をはかる私鉄とが協調し,新たな社寺参詣と行楽との結びつきが各所で見られるようになった.
1925年(大正14)新宿・東八王子間を全通させた京王電気軌道(のちの京王帝都電鉄)は深大寺,大国魂神社,高幡不動の参詣を宣伝し,1899年(明治32)六郷・川崎大師間を開通させた大師電気鉄道は,1901年(明治34)六郷から大森駅前,そして1902年(明治35)には穴守線と次第に路線を伸ばし,1905年(明治38)北品川・神奈川間を全通させ,今日の京浜急行の基礎をつくったが,この鉄道も川崎大師,穴守稲荷など新しい流行神への参詣客を増加させた.
新しい流行神としては東京急行の沿線にある地中の八十八カ所の玉川大師(真言宗玉真院・世田谷区),身延山関東別院(日蓮宗世田谷区),身代り不動(真言宗大明王院・川崎市高津区)なども,鉄道と協調して参詣者の誘致を図かった好例である.
ここで近代に入って流行神として大きく飛躍し,行楽地にもなった川崎大師と穴守稲荷についてもう少し掘り下げて見よう.
厄除け大師あるいは川崎大師と呼ばれる平間寺(川崎市川崎区)の大師堂は,毎月21日の縁日や,初大師と呼ばれる1月21日,2月の節分や納めの大師と呼ばれる12月21日には,大勢の参詣人で賑わっている.
この平間寺の開創は古く,12世紀に遡ることができるが,江戸中期から参詣人が増え,1882年(明治15)三宝院の末寺から京都智積院の直末寺にかわり,真言宗智山派にかわった.1884年(明治17)寺域を拡張して境内を整備し,1890年(明治23)不動堂を建立し成田不動の分体を迎えて安置した.このころから次第に流行神的色彩を強めてきたが,京浜急行大師線の前身大師電気鉄道の開通によって,参詣者の数が大きく伸び,1911年(明治44)の記録では,春秋の天気の良い日には,授与した御札の数が5,000余枚に達したと記されている.国鉄では,毎月21日の縁日,1月・5月・9月の21日の護摩供養に新橋・川崎間に臨時列車を増発させたこともあった.
大師駅から大師までの参道の両側に八百吉・川崎屋・梅園・松葉屋・恵比寿屋・榎本・中屋・丸由・竹屋・大茂などの料理屋が軒を並べて客を迎え,千代の飴・翁飴・葛餅・かりん糖・白酒・蛤・麦藁細工・河豚提灯などの土産物店も多かった.
川崎大師や参道の店は,第二次大戦の戦災ですべて焼失してしまったが,戦後復興し,再び戦前の繁栄をとり戻している.
対岸の羽田には穴守稲荷神社があって,大勢の信徒を集めており,祭日には多数の参詣人で賑わっている.
この神社の歴史は比較的新しく,文政年間に鈴木弥五左衛門という人が,多摩川の河口を埋立てて数町歩の農地を造成し,のちに鈴木新田と命名されたが,鈴木家では五穀の豊穣を祈って埋立地の縁(ふち)の堤防の上に,稲荷の小祠を
った.その後暴風雨のため堤防に穴があき,ここから海水が浸入したが,地元の農民は必死にこれを押え浸入を防いだ.農民たちはこの海水の浸入が防止できたことは稲荷社のご利益であるとし,穴を守ったことから穴守稲荷と命名した.
その後,この神社は鈴木家の衰運によって荒廃してしまったが,地元の有志が神社の興隆をはかって,公衆参拝地の許可を申請し,1885年(明治18)許可を受けると次第に信徒が増え流行神となっていった.これは当時の鈴木新田の地域が多摩川の河口から東京湾岸にかけての自然のよく残っている地域で,東京や横浜の人たちが日帰りの行楽の場として,来遊することになったことも大きな要因であった.
1896年(明治29)鈴木新田に天然ガスと鉱泉が湧出し,泉館という鉱泉旅館が開業するが,つづいて西本・羽田館,要(かなめ)館などが開業し,神社の参拝者の増加に拍車をかけた.1912年(明治45)京浜電鉄は直営していた羽田運動場の中に遊園地をつくり,来遊者はさらに増えていった.
このようなことから穴守稲荷神社の信徒も急激に増え,1900年から1920年ごろにかけて東京市中からその周辺,そして横浜,千葉,埼玉という形で関東一円に講社が組織されていった.この穴守稲荷は,1945年(昭和20)敗戦による米軍の進駐によって,鈴木新田(当時の鈴木町と穴守町)一帯の住民が立退きを命令されたとき,同時に移転を余儀なくされ,現在の場所(羽田4丁目2番)に移った.
現在でもこの神社は多数の信徒を容し,毎年2月初午や11月3日の大祭は,大勢の参拝者で賑わっている.