2.3 観梅と梨もぎ
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2.3 観梅と梨もぎ

 多摩川に関連する行楽の中で,古くから庶民に親まれているのは観梅であろう.多摩川沿岸には著名な梅林が数多く所在していて,近隣住民の行楽の場となっていた.主要な梅林をあげて見ると,上流から吉野・久地・小向・原などがあげられる.

 吉野は現在は青梅市に属しているが,江戸時代には駒木野・畑中・日影和田・下・柚木の各村によって構成されていた地区で,多摩川の南岸に所在している.各村とも梅樹が多く,本来梅干用の梅の実を採るために栽培されていたもので,特に下村の梅林は歴史も古く,文化・文政期には年々100駄ずつの梅の実を江戸に出荷していたといわれている.下村には古木も多く樹令300年を超えるものもあり,中でも天園梅(中分天神社境内),蓬莱梅(個人所有)などの名木や,巌割梅と呼ばれる岩の中に幹のある奇木は一見の価値があるといわれ,また日影和田村の文楼梅(個人所有)は巨木として著名である.

 青梅鉄道(現在の国鉄青梅線)の開通は,立川・青梅間が1895年(明治28)で,石灰石を運ぶことがその主な目的であったが,1929年(昭和4)に御嶽駅まで延長されると,観梅の行楽客が次第に増え,臨時電車も出るようになった.現在でも青梅線の日向和田駅の西方,多摩川を渡った一帯には多摩川に沿って2万5千本があり,3月上旬から咲き始めるが,この時期には「梅まつり」も開催され,近郷そして都心からの行楽客で賑わう.

 久地の梅林は南武線津田山駅の北側,多摩川の傍にある.元禄年間(1688−1704)に久地村の河邊森右衛門がその邸内に植えたもので,老樹数百本が見事な枝ぶりで植樹されている.この梅樹は幕府の植樹の御用を勤めていた河邊森右衛門が梅の実を採取するために植えたもので,梅干用の白加賀・青加賀・紅加賀などの品種が植えられたが,樹令が進むにしたがって実の成る量が少なくなり,花の観賞が主になってしまった.そのため江戸時代に既に文人墨客が来遊するようになり,南武鉄道や玉川電車の開通によって遊覧者がさらに多くなった.

 この久地の梅林は,第二次大戦中に次第に農地化され,現在は影をひそめてしまった.多摩川の下流にも梅の名所があり,東京の市域の人々の行楽の場所になっていた.その1つは神奈川県側の小向(こむかい)の梅林であり,他の1つはその対岸の原村の梅林である.小向の梅林は江戸時代から梅の名所と知られていたが,1880年(明治13)川崎駅(宿)の戸長田中光弼が,営農社の社長津田仙を同道して小向村の斉藤丑之進を尋ね,観梅の案内を乞うた.この津田仙の観梅行が機縁となって,東京の文人の間に小向梅林の名声が広まった.

 このころ自由民権の論陣を張っていたジャーナリストで,朝野新聞の社長であった成島柳北が,石井南橋・津田仙・山田享次・野田千秋らを伴って一日小向梅林を遊観した.柳北はこのときの感銘を「小向村探梅記」と題して新聞の紙上に発表したが,これがいろいろな形で反響を呼び,依田学海はこれを賞揚する詩を発表し,1884年(明治17)明治天皇の小向梅林行幸となったのである.この行幸が1889年(明治22)の町村制施行にあたって,小向村他7カ村が合併したとき,村名を御幸村と名づけるもとになり,さらに今日の幸(さいわい)区という区名のもとにもなっている.

 この小向村の梅林も第二次大戦中の食糧増産のあおりを受け,次第に農地化されてなくなってしまった.

 小向の対岸旧原村(大田区多摩川2丁目)にも,原村の梅園と呼ばれる梅林があった.この梅林は近代に入ってからの創設で,1883年(明治16)に原村の旧名主原清次郎が梅の実を採取することを目的として,約2,000坪の土地に300株の梅の木を植えたのがそのはじまりである.明治の浮世絵画家月岡芳年がこの梅林の風景を描いて板画とし,これが売出されたため梅林を訪れる人が多くなり,また当時の新聞が取り上げたので有名になった.1893年(明治26)以降,所有者が転々と替わり,1937年(昭和12)閉園となってしまった.現在は工場の敷地となっている.

 多摩川下流域の梅林は,東京・横浜の人たちの1日の行楽の場であったが,都市化の波や第二次大戦の混乱によって,いずれも陰をひそめてしまったのである.

 多摩川の下流域では,洪水がもたらした土砂の堆積の上で,果樹栽培が盛んに行れるようになったが,昭和に入ると観光梨園が各所にできて客を誘致した.

 梨の栽培は大師河原付近で寛政年間に始められたが,1893年(明治26)ごろから大師河原村の當麻辰次郎(家名長十郎)は新品種の育成に努め,病害に強い長十郎梨を開発し,この甘味の多いしかも反当り収穫の多い品種は間もなく全国に普及した.

 明治末から大正の初期にかけて急速に栽培面積を拡大し,河口に近い大師河原からまず田島・御幸の各村に及び,中流の中原,住吉,日吉の各村,北西部の稲田村を中心とする生田・向ケ丘・高津方面に広がった.大正初期から二十世紀梨,大正の末になると八雲,昭和初期には菊水などの青梨が導入され,昭和期に入ると登戸付近(川崎市多摩区)から稲城市(東京都)にかけての多摩川の南岸一帯が主産地となった.

 1921年(大正10)発足した国鉄南武線の前身南武鉄道株式会社は,1927年(昭和2)川崎・登戸間を開通させ,2年後の1929年(昭和4)登戸・府中間を開通させるが,この鉄道ができて梨もぎが盛んに宣伝され,果熟期の8月末から10月中旬まで,各梨園は家族連れで賑わうようになった.現在でも住宅や工場ができて栽培面積はせばめられてはいるものの,栽培は盛んで,南武線沿線には観光梨園があって,梨もぎ客の誘致をはかっている.



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