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多摩川の文学を語る上で,まず第一に取り上げなければならないのは,萬葉集巻十五に武蔵国歌として載せられている
多麻河伯爾(たまかわに),左良須弖豆久利(さらすてずくり),佐良左良爾(さらさらに),奈仁曽許能児乃(なにぞこのこの),己許太可奈之伎(ここだかなしき)
の歌である.
多摩川でテヅクリ(調布)を晒すこの女(こ)は,更に更にどうして可愛いのであろうかと歌っているもので,多摩川で布を晒し,その晒された布が調布として官に納付されていたことが,この歌によって知ることができる.多摩川の沿岸には調布と呼ばれている地名が3カ所にある.その一つは大田区の調布地区,そして調布市,もう一つは青梅市の調布地区で,そのうちの調布市のあたりが,萬葉古歌の里とされている.このあたりには武蔵国の国府(府中市)や国分寺(国分寺市)があり,また狛江という地名があるように中国や朝鮮から渡来した帰化人が土着した地域でもある.ということは多摩川の中流流域が古代において既に先進地域であったため,このような歌謡の発生する素地が生成されていたと解釈されるわけである.
「延喜式」によると,武蔵国から相当量の布が調として納められていたことがわかるが,そのうちの一部が,多摩川に晒す調布(てづくり)であったものと考えられる.
ここで多摩川を詩材とした歌謡について,もう少し掘り下げて見ることにしよう.
萬葉集の調布歌は名歌として評価されていたものであろう.この歌の類歌が数多くつくられている.古い作品としては,10世紀の末に編さんされた勅撰集「袷遺和歌集」の巻十四恋四に読人知らずとして
玉川にさらすてづくりさらさらに,昔の人のこひしきやなぞ
の歌が載せられている.
1215年(建保3)に編まれた「内裏名所百首」の中にも
てつくりやさらすかきねの朝露を,つらぬきとめぬ玉河の里 定家
(夫木抄では「つらぬきとむる」とされている)
たま河にさらす手つくりさらさらに,よにたのむ日影のあはれ過ぎ行く 家隆
以上の二首が見られる.
江戸時代に入ると多摩川を詠んだ歌謡は数多く見ることができる.その中の主要なものをあげて見ると,加藤千蔭の「うけらが花」には
月照河水
むさしねに雲をさまりてさゞれ石も,月にみがける玉川の水
月前眺望
玉川や千むらいほむら手つくりを,さらしそふると見ゆる月かな
とあり,高田與清の「松屋棟梁集」には玉川両岸百首が載せられている.高田與清は小山田與清ともいい,1783年(天明3)に多摩川に近い武蔵国多摩郡上小山田村(現在の町田市小山田町)に生まれたが,国学者であり故実家でもあって多くの著者がある.号は松屋と称したが,初めは玉河亭と称していた.多摩川に関する著書にはほかに「多摩川考」がある.1847年(弘化4)没,年65才.
玉川両岸百首のうちの一首を紹介してみよう.登戸(川崎市多摩区)を詠んだ歌であ
る.
さしよする舟よりおりてのぼり戸の 堤にしばし月を見るかな
村田春卿は
春の始の歌とて人々と共によめる
白玉の,たまの横山,駒並(な)べて,今日こえ来れば,霞立つ,野の辺はるけし,氷とく,川とほ白し,がかろひの,春日おもしろく,てれる玉川.
と多摩川と多摩の横山を詠じている.村田春卿(1739〜1768)は江戸日本橋小舟町の豪商村田春道の長男で,歌人.国学者であり歌人で有名な村田春海は,その弟である.この歌は清水濱臣や弟村田春海等によって刊行された「村田春卿家集」に載せられている.
1791年(寛政3)「武陽玉川八景之図」という錦絵が,江戸馬喰町の森屋治兵衛が板元となり,刊行された.画家は青陵岩精で,溝口(川崎市高津区)の丸屋七右衛門が販売元になり,大山街道を往来する人々に売られた.(図7.5.1 武陽玉川八景の図)この画には歌人佐野渡の和歌が添えられている.この歌は
都筑ケ丘夜雨
大松に近き都筑の夏木立 嵐も時に夜の雨かな
喜多見ノ晴嵐
実を結ぶ梅の雨とて南より 喜多見に晴るゝ朝嵐かな
登戸ノ夕照
登戸の口もまっかに夕てりの うつりすぎてや色のさゝ色
向丘ノ秋月
網下げの秋の月見を夏の日や あつき利生に祈誓かけたり
溝口ノ暮雪
六月の雪を沢山ぬり桶に つゝみ余りたる溝口のくれ
瀬田ノ落雁
(堅田) (瀬田)
近江路をかたゝをせたにうつしけり かりの名つげて人にしらさん
二子ノ帰帆
夕風を孕んで帰るむしろ帆に 月の生るゝ二子すずしき
宿河原ノ晩鐘
入相のかねには花の江戸つ子も みなちりかゝる宿河原道
以上のとおりで,登戸・喜多見の間から下って瀬田・溝口の間までの多摩川を中心とした情景を近江八景になぞらえて歌っている.
錦絵には「武陽玉川八景之図」のほか,登戸(川崎市多摩区)の鯉登屋佐七の刊行による「武州玉川向ケ丘桝形山見渡三拾三景図」や「宿河原綱下松八景」などがある.
「武州玉川向ケ丘桝形山見渡三拾三景図」にある三十三景とは,桝形山から眺望できるつぎの33カ所である,
玉川向八景
玉川帰帆 猪頭弁天 深代寺大師 小金井桜 武蔵野原 府中六社 八幡山 分梅天神
遠山十三景
上総山 安房山 筑波山 中禅寺 日光山 岩船山 越後山 秩父岳 御嶽山 高尾山 大山 富士 箱根山
十二景
二子の小雨 久地蛙 堰の蛍 喜多見若狭祐古城跡 駒井植田 綱下松 長尾五所権現 宿河原船嶋仮橋 登戸の筏 布田晒屋 仙谷山寿福寺鐘 分梅天満宮
江戸末期に世田ケ谷領深沢村(世田谷区深沢)の住んでいた歌人の太田佐一郎らは,1852年(嘉永5)に「玉川獺田占勝亭八景」を選んでいる.その八景は
(吉)
瀬田黄稲 岡本江楓 川辺タ烟 大蔵夜雨 葭沢暁月 登戸落雁 二子漁舟 富士雪晴
以上のとおりで,このとき太田佐一郎は.
瀬田黄稲
手づくりをさらす少女の多摩川の 瀬田の稲かる頃は来にけり
二子漁舟
玉くしげ二子のあたり明けぬやと 見しや鵜舟のかゞりなりけり
と詠んでいる.
太田佐一郎号は子徳,元々農民であったが,本間遊清の門に入り歌道を学んだ.多摩川辺の風物を詠んだ歌が多い.その作品のうちの一二を紹介してみよう.
青々と春を向が岡なれや 不二まで霞つゞき野の里
相模なるあし鷹の御牧より献ずる駒引けろを見て
武蔵野の向が岡にひく霞 今日あしたかの駒のいななき
この歌に登場する向が岡について,江戸中期の学者であり,狂歌師であった大田南畝(1749−1823)は,その著「向岡閑話」で,
向が岡は玉河の流を北に帯て,西は小山田の関よりはじまり,東は末長の里に終れり.岡の長程六里あまり,むさしのゝ南にむかへり.多摩郡,橘樹郡の中なり,とは田澤氏(田澤義章)の武蔵野地名考にもみえて,土人もいへり.
と記しているが,古歌に向が岡を詠じたものが多い.
武蔵野のむかひの岡の草なれば ねを尋ねても哀とぞ思う 小野小町(新勅撰集)
夕日さす向の岡の郭公(ほととぎす) 雲のはたてにをりはへてなく 隆源法師(歌林名所考)
武蔵の国府があった府中から,多摩川を隔てて望見される丘陵が「向(むか)いの岡」であり,その北側が「多摩の横山」である.国衙に派遣された役人が京都を忍び,河内(大阪府)の向いの岡になぞらえてこのような地名をつけたではなかろうか.
多摩の横山も京都をとりまく横山の名をとったものと思われる.萬葉集巻二十に防人の豊島郡上丁椋崎部荒蟲[かみのよぼろくらはしべのあらむし]の妻宇遲部黒女[うじべのくろめ]が作った
あか駒をやまぬにはかしとりかにて 多摩の横山かしゆかやらむ
という歌が載せられている.国府に集合する防人の夫を見送る実の悲しみをあらわしている.
江戸期につくられた俳句や狂歌の中にも多摩川を詠んだものがある.俳句では
玉川や光る瀬の秋鮎の秋 一 兆
調布の俤白し瀬々の秋 蓼 太
以上のような句があるが,この句をつくった雪中庵蓼太は,
里人よ秋の夜語れ太平記
の句を分梅村で詠んでいる.
狂歌では,
玉川の賤が手わざもむつまじや 女波男波は布にうたせて 春日亭長人
遠目から流るゝさまもいったんの さらせる布と見ゆる玉河 一寸法師
(狂歌江戸砂子集)
玉川やさらせる布も行水も みな大江戸の仕入なるらん 二 喜
武蔵野の萩の雫や落ちそはん 紫そむる玉川のさと 捨 魚
末広の猶もあふげる大江戸の 水の要や玉川の里 八百齋
(狂歌江戸砂子集続編)
以上の歌があり,古歌を基にしたものが多い.